大阪市立大学の歴史
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84Ⅳ 総合大学・大阪市立大学の誕生 ところで、看護婦養成機関として発足した医科大学厚生学院は、3年課程全日制として開設された1949(昭和24)年当時には、独立の校舎もなく病院の一部等を教室としていたが、やがて病院本館地階病棟全体を校舎とし、定員も30名に増員(1953年)して、1955(昭和30)年の医科大学の市大編入時に医学部附属になる。さらに、大阪市在職の准看護婦の進学希望を受けて1963(昭和38)年に夜間定時制の第2部を設置した際には定員30名を加え、1973年に従来課程の第1部と第2部で50名ずつ定員増員して一層拡大した後、1977年の附属看護専門学校への改称、1981(昭和56)年の第2部募集停止に代えた第1部定員の80名への増員を行い、専門職としての看護教育の発展を目指していくことになる。2.大阪市立大学の創設大阪市立大学は、なぜ、文系、理系をあわせた「総合大学」となったのか 大阪市立大学は、大阪商科大学をはじめとする大阪市所管の教育機関が新制大学化することに対して強い意欲をもったこと、総合大学化に向けた大阪市の並々ならぬ決意があったことから実現した。 第2次世界大戦後、日本の大学教育体制については、1947(昭和22)年3月に教育基本法、学校教育法が制定公布され、同年7月GHQ民間情報教育局の指導下で大学基準協会が発足し、大学基準が制定され、1948(昭和23)年4月には12の公私立大学が学校教育法、大学基準に基づく新制4年制大学として発足し、1949(昭和24)年1月には教育公務員特例法が公布されていた。 それでは、前章までに取り上げた「4つの源流」はどのように対応しようとしていたのだろうか。まず、大阪商科大学では、辞職した本庄学長に代わって1946(昭和21)年1月に第3代学長に恒藤恭が就任した。そのもとで新制大学の創設をめぐる議論が行われた。1947(昭和22)年6月頃に大阪帝国大学総長今村荒男より、大阪帝国大学と大阪商科大学を合体させて新制総合大学として再出発しないか、との誘いがあった。しかし、商科大学側は、そのままでは公立の商科大学が国立の大阪大学に吸収されることになるのではないか、むしろ本学は長い公立大学としての伝統のうえに立って独自の道を歩んで行くべきではないか、また大阪市という大産業都市には総合大学は2つ併存し、それぞれ独自

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