大阪市立大学の歴史
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83総合大学・大阪市立大学の誕生 Ⅳ未達の医専は廃校整理されることとなった。市立医専は幸いにも文部省によるA級判定を受けて存続が認められた。 戦前の多種多様だった旧制高等教育機関が、1950(昭和25)年度から、新制の「大学」へと一本化されることが決まり、それに伴って、学生・教授団・保護者が一丸となって、急速かつ熱心な昇格運動が展開された。教授団が市当局に出した要望には、「既存の大学の如く、研究の殿堂にたてこもるのではなく、市民の保健衛生と直結、市民病院、市保健所、市防疫機関の全部を包含した中心機関でありたい」との「市民生活を基盤とする独自の医科大学構想」が提示された。 大阪市会は医科大学昇格に関する意見書を1947(昭和22)年1月に可決し、翌2月には文部省に医科大学設立を申請した。同意見書では、「都市の健康生活を確保するために必要な環境医学」など、「予防医学上の諸条件」を採り入れることが、大都市大阪には重要であるとしていた。まず1947年4月からの予科設置が認められ、文部省の視察等を経て1948(昭和23)年2月にようやく学部開設が認められた。予科はその後第4期生までを受け入れ、1951(昭和26)年に閉校されているが、その短期間に3名の女子学生を初めて受け入れ、後にそのうち2名が女医となった。 さて、医専設立当初から校長を務めてきた小幡が、1947年8月には退任することとなり、海外でもその業績が広く知られていた木下良順大阪大学医学部教授が、大阪市や進駐軍の推薦も受けつつ、後任の医専校長兼医科大学長事務取扱に就任した。それとともに再度、教授スタッフの刷新充実が図られ、学閥に囚われない新しい人事が実現した。治療医学よりも公衆衛生を優先すべきとする理事会に対し、木下学長が、「宏壮なプランを画きつつも、施設充実はなお財政的に容易でないことから、まず優秀な教授陣の充実を先行」したものである。 「市民の福祉の為の公衆衛生などに重点」をおく、「ユニーク」な医科大学、むしろ大阪市のメディカルセンターとしての役割の強調は、当時の占領軍の「民主的な、市民のための福祉厚生施設」を求める主張とも重なるものであったが、大阪軍政部教育部長だったメリット少佐の助言により、公立大学としては全国初となる「理事会による大学運営」が行われた。この理事会は、単なる諮問機関ではなく、「実質的な決定機関」としての機能を持ち、医科大創設期の基礎作りの際に大きな役割を果たした。

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