大阪市立大学の歴史
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82Ⅳ 総合大学・大阪市立大学の誕生女子専門学校組織と同等になること、3)大阪市には市立高女9校、女子商業学校3校があるにもかかわらず1つも専門学校がないこと等、7点が挙げられた。 翌1947(昭和22)年2月に、大阪市は、女子専門学校昇格のための認可申請書を作成して文部大臣宛に提出した。校名は大阪市立女子専門学校とし、修業年限3年、生徒定員360名、被服科・英語科に加えて育児科が構想され、計3学科各3学級という計画概要だった。それと並行して3月には、市議会でも同校専攻科廃止と同年4月の大阪市立女子専門学校発足が議決された。文部大臣からも3月末日付けで認可が下り、初代校長に西華高等女学校長北村春吉を迎えた。 この女専開設後まもなく、「女子専門学校としての教育内容」充実が緊急課題とされ、上記3学科に加えて生活科学科を増設するという案が具体化した。この生活科学科増設は、「家庭科の全科を具備する女子の高等教育機関の実現」を目指したものであり、「当時きわめてユニーク」な存在だった大阪市立生活科学研究所の教育上の便宜供与の約束によって可能となった動きだった。文部省から、名称は「生活科」と考える方がよいとの意見が付されたこともあってか、最終的には1948(昭和23)年に「生活科」の増設申請が近藤市長宛に提出された。そして、市長から文部大臣森戸辰男宛に学則変更認可申請書が提出され、これが認可された。4科体制となった同校は、「生活」を対象とする学問・教育体系が志向され、教育科目・教員人事の整備が進んだ。全国で初めて男女共学の4年制家政学部として設置される、新制の大阪市立大学の家政学部(後の生活科学部)へと昇格していく基礎は、こうして築かれたのである。医専の大学昇格―大阪市立医科大学時代 戦争も終盤に創設された大阪市立医学専門学校は、戦局の悪化の中、勤労動員と連日の空襲の合間を縫うような断続的な講義・実習の実施を余儀なくされたが、幸い、学舎・病院ともに大空襲の戦火を免れた。これにより、戦後の再建は比較的スムーズに進んだ。 終戦後の一連の民主化政策の中、医療制度改革案が出され、医科の学制も大変革が迫られた。医師免許には、卒業後に指定病院での1年の実地訓練(インターン)とその後の医師国家試験合格が必要となり、それに伴い医学専門学校のレベルアップも問題にされた。修業年限が4年から5年に延長され、一定基準に

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