大阪市立大学の歴史
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81総合大学・大阪市立大学の誕生 Ⅳ都島工業専門学校の終戦後と大学昇格への思い 終戦間際の1945年6月の空爆で、木造校舎など全校舎の半分以上を焼失した都島工専は、終戦後の動員学生の復学と相まって、まず、校舎不足に悩まされ、北区の国民学校に分教場を設けて教育を行った。一方で、終戦直後の都市における厳しい食糧事情や住宅難等から、夏期休暇を含む長期間授業休止も余儀なくされた。授業再開後しばらくしてからは、天王寺区の国民学校に仮校舎を設けて移転し、実習・実験を、大阪市立機械工養成所・大阪市立工業研究所や大阪帝国大学工学部、大阪市立電気科学館などの各施設にて実施した。 1947年度からは、学則改正を実施して、女子の入学も認めている。 同校卒業生の新派俳優・金田龍之介は、学生たちが「終戦によって解放された若者たちのエネルギー」を、軽音楽・学生演劇・応援団・各部主催のダンスパーティなど、「いろいろな形で爆発させていた」と、当時を振り返っている。 その後、大学昇格の機運も高まり、在校生・卒業生・保護者で「都島工専大学昇格期成同盟」が結成され、近藤博夫・大阪市長に大学昇格の陳情もなされた。近藤市長は、大学昇格への機運は好感しつつも、次節のとおり市立の新制総合大学創設を構想しており、都島工専を中心に理工学部を設置し、「基礎的素養を十分に身につけた創造力のある技術家を養成」する意図を持っていた。女子専門学校への昇格―教育内容・教員の充実と「生活科」の誕生 市立西華高等女学校も、終戦とともに工場動員生徒が学校復帰を果たしたが、終戦直後の社会不安や交通混乱等もあり、当初は約100名(在籍者の5分の1)程度しか登校できなかった。しかし11月には、400名前後が戻ってきた。 やがて1946(昭和21)年9月末には、終戦後急速に高まりつつあった女子高等教育ニーズに応え、大阪市立西華高等女学校専攻科昇格実行委員会によって「昇格促進趣意書」が大阪市に提出された。女子の「科学的無知と無関心並びにその社会観が甚だ狭小」という問題点を解消するために、「女子普通教育の程度を一躍向上させて、高等専門の教育を受ける機会を男子と均等の地位に迄引き上げること」が「急務」だとして、同校専攻科を女子高等教育機関である女子専門学校へ昇格させる要求を行っている。その理由には、1)専門学校と同等の中等教員の免許状が下付されていること、2)翌々年度には専攻科9学級で他の

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