大阪市立大学の歴史
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80Ⅳ 総合大学・大阪市立大学の誕生の刷新が図られ、新しい学則が制定される一大改革が進められることとなった。 すなわち、同年12月には、800名とも1000名とも報じられた多くの学生たちによる学生集会が開かれ、学生たちの教授会宛要求書が出された。その要求書では、戦時中に思想的理由で休・退職させられた追放教授や追放学生の復帰と、進んで戦争協力した教員や研究能力の低い「無能教授」の追放等が求められていた。まもなく、名和統一、木村和三郎、上林貞治郎らをはじめとする追放教授の復職が実現し、同様に商大事件で退学させられた学生の復学も行われた。一方で、全教授が辞表を提出し、恒藤学長にその扱いの全権を一任したことによって人事刷新を図るということもなされた。 このほか、恒藤学長は、大学のあり方全般の再検討や、教育体制の改革を実施した。1946(昭和21)年4月に学則改正が行われ、前章で見た国家主義的な学部目的から「国家思想ノ涵養」「負荷ノ大任ニ堪フヘキ」の文言を削除し、また、「商業ニ関スル学術」から「政治経済ニ関スル学術」へとその対象を変更し、修業年限を3年に戻し、学年制から科目制へと変更し、全科目選択制・卒業論文提出の義務化なども実施した。授業料は大阪市から値上げ申請がなされ、続くインフレの下、その後たびたび値上げが実施された。大阪市住民とその他の金額の区別はなくなった。 1947(昭和22)年3月には、高商部の復活が認可され、1947年度は商大学部・予科・高商部の「三位一体」体制が復活した。やがて1949(昭和24)年4月に新制の大阪市立大学が創立され、これら三者はその中に発展的に解消していくが、旧制時代から在学している学生たちが卒業するまでは制度的にはそれぞれ存続した。そのため、最終的には1951(昭和26)年に高商部が、1953(昭和28)年に商科大学学部が最後の卒業生を送り出し、幕を閉じることとなった。米軍監視所(1954〔昭和29〕年)米軍接収時代の杉本町キャンパス米軍接収風景(1955〔昭和30〕年)

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