大阪市立大学の歴史
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79総合大学・大阪市立大学の誕生 ⅣⅣ 総合大学・大阪市立大学の誕生(1940年代半ば〜1950年代)‌―戦後改革と大阪市大の理念、米軍接収下での苦難―1.終戦直後の状況―それぞれの新制大学化までの歩み商科大学の終戦後―米軍による学舎接収と民主化の動き 1945(昭和20)年8月の終戦直後の9月から日本各地に連合国軍すなわち米軍の進駐が進められ、旧日本軍の施設をはじめとして、多くの建物が接収された。その中に、大阪商大の学舎も含まれていた。大阪海兵団が戦時中に使用していたことを理由とするものだった。予科・工業経営専門学校(高商部)の学舎接収にはじまり、学部学舎の一部、最終的にはその全部が接収されてしまった。そのため、市内各地の国民学校校舎を仮学舎として教育をスタートせざるを得なくなった。国民学校校舎の戦災被害は著しく、窓ガラスのない劣悪な教育環境であった。また、少人数による急な移転を余儀なくされた移動時の図書散逸と、劣悪な保存環境による図書劣化により、図書館は機能不全に陥り、膨大な損害を被った。 そのような厳しい環境の中、11月からようやく授業が再開され、復員学生たちをはじめ多くの学生が戻って来た。しかし、戦時中から続く食糧難が一層悪化し、配給は遅配・欠配続きで、大阪市民は「慢性的飢餓状態」にあり、学生たちも同様に厳しい状況下にあった。10月に文部省が行った「臨時教育調査」では、「学徒」は「栄養失調続出」、「制服ナキ者アリ」「下宿ヲ見出ス事困難」であると記されていた。 一方、GHQ(連合国最高司令官総司令部)は同年10月に「政治的市民的及び宗教的自由に対する制限の撤廃に関する覚書」を発布し、これとともに獄中にあった全ての商大事件関係者も含む政治犯・思想犯が釈放された。GHQの教育指令に基づき文部省からも、戦時中の追放教員の「優先再任用」等、種々の指示が出された。 商大では学生たちが「学生委員会」を組織して追放教授の復帰を要求した。また、敗戦により戦時中からの信念が全く否定されることとなり、自らけじめをつけて本庄学長が辞意を表明した。後任の学長として、戦時中の滝川事件に関わった恒藤恭教授が就任し(恒藤は京大教授への復帰も果たしている)、教員

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