大阪市立大学の歴史
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78Ⅲ 戦争に向かう4つの源流 市立医学専門学校規程(1944年制定)における目的は、以下の通りであった。本校ハ専門学校令ニ依リ皇国ノ道ニ則リ国民医療ニ須要ナル高等ノ教育ヲ授クルヲ以テ目的トスすなわち、時局のニーズに応え、「皇国ノ道」に則って、国民のための医療に必要な高等教育を与える機関として発足したのである。それはまさに1945(昭和20)年5月のドイツ無条件降伏や8月の広島・長崎原子爆弾投下、そして日本の無条件降伏による第2次世界大戦の終結直前のことであった。 この第4の源流である医学専門学校は、1948(昭和23)年4月に旧制の大阪市立医科大学となり、1952(昭和27)年4月に新制の大阪市立医科大学となった後、1955(昭和30)年4月に大阪市立大学に編入されて医学部となっていく。 また、旧制の大阪市立医科大学に1949(昭和24)年4月に開設された大阪市立医科大学厚生学院は、現在の大阪市大の医学部看護学科および看護学研究科に続く、看護職養成の系譜の源流となっている。厚生学院は、大阪市立南市民病院附属看護婦養成所を前身として入学定員20名で発足したものであったが、やがて医科大学の大阪市大編入に伴って1955年に大阪市立大学医学部附属厚生学院となり、その後、夜間課程の第2部の設置(1963(昭和38)年4月)や医学部附属看護専門学校への改称(1977(昭和52)年4月)を経て、医学部看護短期大学部や、現在の医学部看護学科や看護学研究科へと変遷し発展していく。 第4の源流の大学昇格等に向けての発展の詳細については、次章以下で触れることとしたい。大阪市立医学専門学校 基礎学舎(北区西扇町)〈左〉および附属病院(旧市民病院)〈右〉

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