大阪市立大学の歴史
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77戦争に向かう4つの源流 Ⅲ7.医学専門学校の創設―第4の源流 先にも若干触れたとおり、1944(昭和19)年2月、いよいよ第4の源流が登場する。すなわち、大阪市立医学専門学校が創設されたのである。 市立医専が創設された1944年頃には、太平洋戦争の局面が終盤に近づき、激しくかつ厳しいものとなり、軍医の不足も深刻となっていた。40歳未満の男子医師が例外なく戦列参加を求められていたが、それでも軍医不足が深刻となり、軍部の強い意向によって、政府が各府県と5大都市に医学専門学校の新設を計画した。そして、各府県がもつ比較的大きな病院を中心に、医学専門学校を併設させて、「軍医の短期養成」が図られた。当初予定の大阪市立南市民病院への医専併設計画から、一時、北野病院への併設も検討されたため、北野病院近くの扇町公園に基礎学舎建設が進められた。しかし最終的には、当初の南市民病院への併設が決定されたため、学舎と附属病院が北区と阿部野区に分立されることとなってしまった。この学舎と病院の分立によって、その後の両者の運営・連携に問題が残る結果となった。 市立南市民病院は、岸本吉右衛門の寄付をもとに1925(大正14)年に大阪市が設立した大阪市最初の市民病院であった。岸本の「健康が唯一の生命である働く大阪商人、大阪を繁栄にする人材のスピード療養、低料金治療」との意図から作られた「日本で最も古い社会事業病院」とも言われる大病院だった。 当初は藤原九十郎が校長事務取扱を務めていたが、1944年4月下旬には、小幡亀寿が校長に就任した。修業年限は4年、生徒定員は合計480名だった。初年度は、1学年120名の定員に対し、入学志願者3009名、実受験者2694名、競争率21倍もの人気であった。戦時下の物資および予算不足に加えて、多くの医師が戦地に赴いており、適任教員の採用も困難を極めたが、概ね京大(内科側)・阪大(外科側)から半々というバランス良いスタッフ構成で人事を行うことが出来た。このようなバランス人事は南市民病院時代から続く独自の方式であった。小幡 亀寿

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