大阪市立大学の歴史
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76Ⅲ 戦争に向かう4つの源流する形で、1943(昭和18)年3月に、修業年限3年の大阪市立都島高等工業学校が創立されている。これと同時に、京都帝国大学名誉教授だった平野正雄が、高等工業学校校長に就任した。(平野は、都島工業学校長も兼任している。都島工業学校では、それまでに、1932(昭和7)年に、杉田校長から小山幹也校長に校長が替わり、その後1939(昭和14)年にさらに、更谷晋作校長へと交替している。) このように本学の工業教育は拡大もしたが、一方で、同年4月には、都島工業学校が6年制から4年制へ短縮され、1945(昭和20)年には、新設の大阪市立都島高等工業学校が大阪市立都島工業専門学校へと名称変更をしている。また、同年6月の空襲で校舎も被災するなど、必ずしも充実のみが進んだわけではなかった。 また本学の女子教育は、同じく基本的に維持され、女子高等教育機関としての一層の充実が図られた。戦時期の1941(昭和16)年4月には高等西華女学校が改組され、大阪市立西華高等女学校が設立された。本科5年・専攻科3年からなる大阪市最高の女子教育機関であった。同年10月には、日頃都会の中心で学ぶ学生達のために、大阪市郊外の千里山に西華郊外学園が準備され、郊外演習として活用された。1944(昭和19)年には、熊沢信二校長へと校長が再び交代した。千里山郊外学園 実習風景 1949(昭和24)年

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