大阪市立大学の歴史
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75戦争に向かう4つの源流 Ⅲ学校・工業専門学校等に転換することが定められた。また、1943(昭和18)年10月の「教育ニ関スル戦時非常措置方策」によって、文科系学生の徴兵猶予停止の他、高等学校文科の学生定員の3分の1削減とその代替としての理科系増員や、勤労動員の年間3分の1実施等が要求された。 商大でも、このような基本的流れに沿って、戦時下において、まさに教育の縮小(改変)と拡大の両面を経験することとなった。 まず1944年4月には、「個人主義的な利潤追求を目指す商業人の育成を排し、直接生産増強に役立つ人材の育成を目指す」趣旨から、商大高商部が改変され、大阪工業経営専門学校と名称を変えて設立された。生徒定員は当初案から120名減らされた480名となった。 こののち、「商業」という名称がつく学校の改組改称という動きは、大学にも及び、1944年には、東京商科大学が東京産業大学に、神戸商業大学が神戸経済大学にそれぞれ改称されている。いずれも同時に、学科並びに教科内容変更も行われた。文部省は同様に、大阪商大に対しても校名変更を求めた。しかし、本庄学長や同窓生がこれに強く反対し、学長も含む大学上層部で話し合った結果、「大学の節操」を守るために、校名変更は見送られた。 同じく1944年にはこの他、「教育に関する戦時非常措置方針」が出され、大学の募集人員も3分の1へ削減された。また1944〜1945年にかけて本土決戦が叫ばれ、商大の学舎の半分以上にも及ぶ予科と高商部の建物、そして学部の一部の学舎が、海軍の海兵団の施設として転用され、大学では使用できなくなった。このように戦争最末期の商大は、実質的教育停止状態に追い込まれてしまっていた。 一方、上記のような文系の縮小という方向に対し、戦時下の全国の医学教育は7倍に増加し、工業理科教育は3倍、農業水産と女子教育は2.5倍に拡大した。 次節で見るとおり、大阪市においても、戦時期の必要性の中で医学教育が新たに始まり、第4の源流となって、戦後に流れていくこととなった。 また、工学教育は、本章冒頭で見たとおり、戦前に飛躍的拡大をみた後、着実に教育を充実させ、その後、同窓会組織である浪速工業会の後援も得ながら7年制の高等工業学校への昇格の案も出された。紆余曲折ののち、最終的には、7年制の高等工業学校への昇格ではなく、従来の大阪市立都島工業学校に併設

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