大阪市立大学の歴史
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74Ⅲ 戦争に向かう4つの源流留任を求める学生の反対運動が1942年2月に起こった。また、同年4月には、商大学部出席調査制度に対する学生の反対運動が起こり、学生大会が開催されている。 このような商大の自由主義的伝統の抑圧に抗する学生の運動の高まりを背景に、同年4月、高商部の上林貞治郎教授や、学部学生山崎隆三ら4名が中心となり「ケルン・グループ」という非合法の政治的組織が結成された。マルクス主義文献の非公然少人数読書会が多数組織され、「商大文化研究会結成準備会」という非公然組織も結成されるなどし、「意識的無意識的に参加した学生」は約100名にも達し、「戦争とファシズムに非合法の組織的抵抗」を行ったとされる。 このような非合法活動が行われつつあった翌年1943(昭和18)年3月に、名和統一大阪商大教授および内田譲吉日本貿易研究所所員らが、大阪府警特高課に治安維持法違反で検挙された。2人ともケルン・グループとの直接的つながりはなかったものの、両者の取り調べの過程で、ケルン・グループに関係していた木下悦二ら6名が検挙され、5月には上林貞治郎、坂井豊一らが検挙された。立野保男も仙台で検挙され、その後も1945年1月まで、検挙は断続的に継続された。商大学生・卒業生の多数が不拘束尋問を受け、最終的に数十名が逮捕・投獄された。 特高警察による取り調べは、人権を度外視した激しい肉体的・精神的苦痛を与えるものであり、長期の拘留とも相まって、獄中の学生達は激しく衰弱していき、獄死者や精神を病んだ者も出た。 同時に大学は治安当局から「進歩的」教員数名の処分を求められ、3名の教員が辞職勧告され、依願退職の形で辞職した。戦争末期の教育の縮小・拡大 戦時中の、日本の高等教育政策の基本方針は、「文科系圧迫」・「理工系優先」であり、それに伴う文科系専門学校の統廃合と、必要理系分野の増設が進められた。 すなわちこの方針に沿って、戦時期の文科系の大学・高等専門学校の多くは合併や廃止が進められ、名称も戦時に対応したものに変更させられた。たとえば、1944(昭和19)年4月に各高等商業学校・高等工業学校等を、工業経営専門

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