大阪市立大学の歴史
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73戦争に向かう4つの源流 Ⅲ育訓練とともに、戦技訓練など課外としての体育訓練の強化を図ったものと「有事即応態勢ノ確立」として学校報国団を隊組織に編成させて、国土防衛および生産の各方面に動員する体制の確立もはかられた。(商大では、軍事教練担当として雇用された学部講師吉本晃が嘘の肩書きを語った「偽大尉事件」が6月に発覚し、同講師が解任されるという事件も起こった。) また、学徒出陣しない学生も、年間3分の1以上も工場等での勤労奉仕にかり出された。やがて戦争終盤の1945(昭和20)年には最終的に「決戦非常措置要綱」が通達され、授業の1年間の停止と通年の勤労奉仕が行われることとなった。 このように教育期間の短縮と教育環境の悪化が進みつつあった厳しい情勢の中、1942(昭和17)年5月に、商大設立以来の功労者であった河田学長が、突然の肺炎から急性肋膜炎を併発して現職のまま急逝した。そのため急遽、村本福松教授が、商大学長事務取扱兼高商部長事務取扱に就任して大学運営に当たった。 その翌6月にはミッドウェー海戦が始まり、時局が一層厳しさを増しつつある中、難航していた次期学長選定が決着し、7月に、本庄栄治郎京都帝国大学教授を、商大学長兼高商部長主任として迎え入れた。学長候補としては、先述の末川博商大教授の名も上がっていたが、文部省からの反対が懸念されたため結局断念された経緯もあった。大阪商大事件 戦時中の大阪商大学生の、反戦反ファッショ的抵抗の姿勢を知ることができる出来事の一つに、「大阪商大事件」(1943〜1945年)が挙げられる。 戦時下でも、商大では自由主義的雰囲気が根づよく、マルクス主義経済学の研究も生きつづけていた。しかし、戦時下の灰色ムードの中で「自由で新鮮な感覚の授業」をおこなっていた予科講師立野保男が、時勢批判などの言動を理由に学長から辞職を申し渡され、東北帝国大学へ転任することとなった。その本庄 栄治郎

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