大阪市立大学の歴史
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72Ⅲ 戦争に向かう4つの源流中学校・高等女学校・実業学校を統一する中等学校令が公布され、大学令の改定も実施された。この大学令の主な改定点は、従来3年制だった予科の修業年限が、1年短縮され、2年制とされたことである。この改正に伴って同年4月には、商大予科の修業年限も2年となった。 この年1943年の2月、日本軍はガダルカナル島から撤退するなど、戦況はますます厳しくなっており、その影響は、高等教育にまで一層及ぶこととなる。 すなわち上記の修業年限短縮に加えて、同年10月に文科系学生・生徒の徴兵猶予の停止が決定された。それまでは、大学および高等専門部・予科の学生・生徒は、すべて徴兵検査が猶予されており、実質的に、在学中は戦争に行かなくても良いこととされていた。しかし、この徴兵猶予停止の決定によって、文科系の学生・生徒(20歳以上)は、戦地に赴くことが求められるようになったのである。 大阪商大学部においては、徴兵適齢に達していない学生はわずか50名余りにしかすぎず、実質上学部教育は停止に近い状況となった。また、高商部・予科でも徴兵対象者が相当数あり、大学全体の教育継続が厳しい状況となった。 そしてこの1943年の11月16日に戦地に赴くこととなった学生生徒達のための学徒出陣合同壮行式が大阪中之島公園で行われた後、11月22日に商大学部・高商部・予科仮卒業(修了)式が行われ、12月上旬には学生達が戦場に派遣された。(「学徒出陣」で学業半ばに軍隊に召集され、戦没した商大出身者を悼み、同期の卒業生たちが戦没者名簿を作成、2002(平成14)年4月、校庭の一角に「戦没学友の碑」が完成し、除幕式が行なわれた。) このように学び手である学生が戦争に取り込まれていったのと同時に、1937(昭和12)年以降、多数の教職員も召集され、次第に大学の教育機能が低下していった。 このほか、1943(昭和18)年3月の「戦時学徒体育訓練実施要項」や同年6月の「学徒戦時動員体制確立要項」などの緊急措置が実施され、正科としての体戦没学友の碑

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