大阪市立大学の歴史
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71戦争に向かう4つの源流 Ⅲ30日) また各校の校友会、学友会などの報国団・護国団への転換も進んだが、商大でも、同年4月には学友会が改組され、忠誠会が発足した。6.戦時中の教育縮小・存続・拡大 戦時期の総力戦体制の論理・理念が、商大の教育理念の中にも入り込んでいったことを前節で見たが、本節では、戦時中の市大の教育や学生生活が、どのように戦争の影響を受けたのか、教育は縮小したのか、拡大したのかという点について見ることとしたい。大学の教育年限短縮と学徒出陣 学生はどのように戦争に組み込まれていったのだろうか? 1941(昭和16)年10月に、勅令「大学学部等ノ在学年限又ハ修業年限ノ臨時短縮ニ関スル件」(6ヶ月以内の短縮)が公布されたことにともない、昭和16年度の商科大学および同高商部の臨時学則が制定され、同年度の卒業が3ヶ月繰り上げられることとされた。 そして、同年12月に商大学部・高商部最初の繰り上げ卒業式(昭和16年後期卒)が執り行われた。また、この年の12月の卒業生に対しては、同月臨時徴兵検査が実施され、合格者は翌年2月に各軍部隊に入隊させられた。これは、国際情勢が一層緊迫したことにともない、軍事用、産業上の人員不足が深刻化し、その解決策の一つとして実施された非常措置であった。 また、1941年4月には「教練ニ関スル規程」が定められ、予科・高商部に加えて学部学生全員にも教練が課されることとなり、学生の負担増大とともに、大学における戦時色が色濃くなっていった。 1942(昭和17)年4月にはさらに3ヶ月計6ヶ月の第2次短縮が決定され、学部・高等商業部はもとより、加えて予科に対しても実施されることとなり、いずれも9月に卒業式が行われた。(10月から商大学部昭和17年度・18年度が開始された。) さてその後も教育縮小の流れはとどまらなかった。1943(昭和18)年1月には

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