大阪市立大学の歴史
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70Ⅲ 戦争に向かう4つの源流商科大学における「役に立つ」人材育成と「錬成」 実業的分野の高等教育への戦争の影響はどのように見られたのだろうか? 具体的に「錬成」は、「集団的勤労作業運動」(勤労動員)や「報国団」という「修練組織」による活動とそれに伴う授業時間の圧縮・短縮として、専門学校教育に浸透していき、やがて大学にもそれらが入り込んでいった。授業時間のみならず、修業年限の短縮も行われ、教育要綱が機能する教育の場、時間はますます縮小化し、代わりに「修練体制」が整備されていくこととなった。ただし、大学における錬成の実践・形態・程度は個別の大学毎に大きく異なり、多様だった。 たとえば、本学同様に実業教育分野の高等教育を行っていた東京商科大学では、ゼミナール制度中心の錬成教育論が展開されていた。すなわち、「全ての錬成活動、組織の基本にゼミナールを置く」、「学問的生活即錬成」「合宿、寝食を共に鍛錬と研究を行うプラン」等であり、「師弟同学」の姿勢・方向性、創造的研究活動への没頭も錬成であるとの解釈がなされていた。 さて、本章第3節において見たとおり、河田学長は、商科大学という実業的学問分野に拠って立つ大学の目標・方針として、「役に立つ」人材育成を掲げていた。そのような目標・方針は、その後、戦時期の国家にとって有用な人材育成という方向性とも結びついていった。戦時下という当時の「時代の濃厚な反映」によっていたしかたないことではあったが、そもそも、実業教育分野は役立つ人材という発想や実社会との距離の近さから、時局に一層適応せざるを得なかったと言えるのではないだろうか。 河田の言う「役に立つ」には、2つの意味があった。先ず第1には「レディメイド式に功利的に例へば簿記算盤などを錬成しすぐにでも役に立つ」という意味である。そして第2には、「『学問のための学問』を排し、社会奉公国家奉公すなはち学生は実業人商人たると共に国士 国民となれといふ観念を涵養」し、「あまりに大阪流の卑近さ」を排除するという意味である。つまり、レディメイド的人間を育成するのではなく「人間としてしつかりした人物を作る、経験をつめばおのづからにして役に立つ」すなわち「応用的」であるということだとしている。とくに、この第2の側面は、戦時期において強調されるべきである、と河田は主張している。(「河田学長談話要領筆記」責任者五島茂、1941年9月

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