大阪市立大学の歴史
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68Ⅲ 戦争に向かう4つの源流止図書及禁止資料」区分が新たに設けられ、マルクス主義関連文献を中心に多数の文献が閲覧禁止図書とされ、研究室から図書課への引き渡しが求められた。5.教育理念への総力戦体制の影響 開戦後、日本の総力戦体制化が進んでいくが、戦争は、戦前の市大の教育にどのように入り込んでいったのだろうか?総力戦体制下の「皇国民の錬成」と教育理念 1939(昭和14)年9月、第2次世界大戦が始まった。翌1940(昭和15)年9月に日独伊三国同盟締結、1941(昭和16)年3月には国民学校令が公布され、同年10月に大学・専門学校等の在学年限短縮の実施などが行われた後の同年12月、ついに太平洋戦争が開戦した。 折しも創立60周年を迎えていた商大では、1940年、「紀元2600年」と「教育勅語発布50年」の祝賀と併せて、創立60周年の記念祝賀行事を4日間実施した。当時の河田学長の式辞にも戦時色が反映されつつあった。 上述の「国民学校令」では「国民学校」の目的として、「国民学校ハ皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為スヲ以テ目的トス」(第1条)と掲げられ、「皇国民の錬成」が教育の理念として明示されている。 この「錬成」という言葉は、1930年代(昭和一桁代後半)から「日本教育の理念、実践の指針を示す用語」として出現したものである。国民学校が発足し、太平洋戦争が始まったこの1941年からは「学校に限らず全ての教育現場における教育実践・自己形成を導くスローガン」として広まったものであった。軍事用語の「動員」や政治用語としての「統合」と結びつきながらも、「総力戦体制下の人間形成」の理念をあらわす教育キーワードとして「錬成」の言葉が使用されたとされている。総力戦体制とは、「思想ニ、産業ニ、国防ニ、国家総力ノ発揚」が必要であるとする戦時期の国家体制であるが、その総力戦体制を支えた「錬成」概念の登場は、明治期からの教育理念の「根本的清算」を意味していた。 天皇を中心とする「皇国の道」という目的があってそれに則って「皇国臣民

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