大阪市立大学の歴史
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67戦争に向かう4つの源流 Ⅲ意味をもつもの」であった。これを契機に商大においては、自由主義精神の鮮明化、大学自治・学問の自由擁護の機運が一層高まったとされる。ちなみに、学内各科および経済研究所を網羅する、大阪商科大学経済研究会という研究組織もそれに前後して発足しており、『経済学辞典』全5巻の編纂が進められたり、『大阪商科大学研究叢書』、『大阪商科大学経済研究年報』、『大阪商科大学欧文紀要』、『経済学雑誌』などの研究誌が続々と発行されたりした。河田学長は、これらの研究誌の刊行は、「学内研究陣容」の充実の賜であると評価している。戦時色の濃い行事の増加 しかし時局は、1936(昭和11)年の2・26事件、1937(昭和12)年の日中戦争開始、1938(昭和13)年の国家総動員法公布と、戦時動員体制拡大へ刻々と進んでいた。文部省の政策は、教育刷新評議会が1936年10月に「国体の本義に基づく」教学刷新方策を答申し、「著しく国体主義的国粋主義的傾向」を帯びつつあった。 そのような中、1937年7月の文部次官通牒「北支事変ニ関スル件」において「教職員・学生の戦争協力精神高揚のための具体的措置」が示され、大阪商大においても、夏休み明けの9月に学部学生全員に対して、「時局ニ関スル学長ノ訓話」が行われるなど、以降、「戦時色の濃い諸行事が激増」することとなった。それらは、戦勝記念の提灯行列・戦勝祈願の神社参拝・強化された軍事教練・時局関係経済講演会・夏期講習会・軍の特別講話・国防費献金運動・戦地への慰問袋発送・勤労奉仕等である。また、商大関係の戦没者が出ると盛大な慰霊祭が行われ、戦地の教職員・同窓生などからの便りが『同窓会会報』に掲載されるなどした。 また、戦争長期化と共に、政府による「国民の言論統制と戦時動員体制の強化」が進められ、その一つとして商大でも集団勤労作業が開始され、以降終戦まで継続・拡大した。 学問研究の自由も制限され、図書館の図書・資料利用制限も実施された。「禁軍事教練(正門を出る予科生)1940(昭和15)年

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