大阪市立大学の歴史
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66Ⅲ 戦争に向かう4つの源流ることを任務」として、「商大の学風形成」に影響を及ぼしたとされる。京大滝川事件と恒藤恭・末川博の採用 先にも見たとおり1933(昭和8)年は、日本が国際連盟を脱退、治安維持法による検挙者が最大数となり、小林多喜二虐殺事件も起こるとともに、ドイツではヒトラーが権力掌握するなど、国内外においてファッショ化が一層進行した年でもあった。 そして、高等教育の世界では、共産主義者や社会主義者のみならず、自由主義者に対しても思想弾圧が行われるようになり、京大において「滝川事件」が起こった。すなわち、京大法学部の教授だった滝たきがわ川幸ゆきとき辰が、中央大学で行った講演と著書における刑法学説をめぐって司法省および帝国議会から問題視され、文部省(文相:鳩山一郎)から同年5月休職処分に付されたことに対し、法学部教授会が大学の自治に反するものとして猛然と抗議、全教官が辞表を提出するも、結局7月に滝川が辞職に追い込まれた事件である。滝川は当時、大阪商科大学の刑法講義を担当する非常勤講師でもあり、同事件は大阪商大にも衝撃を与えた。 滝川事件の際に、最後まで屈せずに同年7月に京大を辞職した教授は、滝川の他に、佐々木惣一、恒つねとう藤恭、末川博、宮本英脩、宮本英雄、森口繁治、田村徳治であった。そのうちの恒藤・末川両氏を、大阪商科大学は、同年9月に講師として採用した。これは、当時の商大の河田学長の働きかけによるものであった。(ちなみに河田学長は、「滝川事件」に先立つ、大学の自治の大きな転換点の1つとも言える事件であった「河上事件」で辞職したマルクス経済学者・河上肇と親交があった。) 本来教授として雇うべき経歴の両名を、講師として雇用したのは、当時の大学教員採用承認を行っていた文部省が教授としての採用を認めなかったためであった。恒藤・末川両講師が、学部教授に昇任したのは、講師採用後7年も経過した1940(昭和15)年10月のことであった。 京大滝川事件は、「大学自治の墓標」といえる事件であり、同事件後、日本の大学の戦時体制化は加速度的に進んだ。そのような状況の中での両名の採用は、その滝川事件を引き起こした文部省や国家権力、学問の自由侵害への「抵抗の

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