大阪市立大学の歴史
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65戦争に向かう4つの源流 Ⅲう基本的性格および特徴をもつ研究所であった。河田学長も就任式後の記者会見で、「経済研究所は実際家に資料を提供するようにしたい」と述べている。 関市長においては「将来大大阪の経済活動の中心機関」にする意図もあった。 研究所長は、商大学長が兼務し、大学と一体となって活動した。同研究所は、以降、商大の研究活動も支え、「努めて豊富に資料を蒐集し整理すると共に、他方同時に之を活用して、最も自由な立場から各方面の経済問題を、なるべく実証的に攷究し、或いは雑誌上の論文として或いは又単行本として、世に提供す商科大学創設当時の学生と校旗・帽章・校歌 創設当時の学生達の意識としては、大学設立までの長い伝統を意識しつつ、新しい学風づくりを担っていく責任感のようなものを感じていたようである。学生の構成としては、大阪市に本籍を置く学生は、学部で34名(28%)、予科で29名(25%)、高商部75名(39%)、また、大阪府の学生は、学部で38名(31%)、予科で38名(33%)、高商部で86名(45%)と、3〜4割程度だった。 新たに、校旗・帽章が定められた。商神マーキュリーを意味する羽翼のデザインだった。一橋大等商科系の多くの学校で採用されている。帽章は、商大学部は「商大」の文字、予科と高商部は大阪市章である澪つくしとOUC(Osaka University of Commerce)の3文字を組み合わせたデザインだった。また、学部は角帽、予科と高商は丸帽(予科はそれに2条の白線が巻かれていた)とされた。 商大の校歌は、「夕べ古城を仰ぎ見て」(佐佐木信綱作詞・田村虎蔵作曲)だった。これは、1907(明治40)年、すなわち大学昇格のかなり以前、北の大火で焼け出される2年程前の市立大阪高等商業学校時代に作られ、その後、校歌として歌い継がれたものである。その他、商大や戦後の市大でも歌われた歌は数多くあるが、それらは作詞・作曲ともに在学生による手作りのものばかりであった。とくに盛んに作られた時期は、太平洋戦争開戦前の1938(昭和13)〜1940(昭和15)年だった。(ちなみに最も新しく作られたものは、戦後の市大応援歌「その名も高き金剛に」で、1966(昭和41)年に市大応援団が作曲し、小林繁が作詞したものである。)予科・高商部帽章、大阪商科大学校旗および学部角帽

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