大阪市立大学の歴史
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64Ⅲ 戦争に向かう4つの源流文部大臣の認可を得た。当初計画では1931(昭和6)年度にはほぼ完成の予定であったが、地元住民(敷地買収が自らの死活問題に大きく関わっていた地主と関係小作人の大部分)が強く反対したため、敷地買収は難航した。地元の反対意見は、耕地を失うことが生活に直接影響を及ぼすという理由のみならず、学校の設置では「周辺の経済発展が望めない」からとの声もあったとされている。 土地収用審査会の採決などを経て、ようやく「買収の完了」、「最後的協定」が成立し、4年にわたる「商大移転争議」が全面解決したのは、1931年半ばのことであった。その後、随時工事が進められ、移転が段階的に進み、全工事が完成、全移転も完了したのは、実に1935(昭和10)年2月だった。時代は、次節で見るように、すでに戦時期に突入していた。(ただし、実際の学舎移転は段階的に実施され、1933(昭和8)年3月末に予科と高商部、1934年7月に大学学部が移転していた。)杉本の新学舎は白い鉄筋コンクリートの近代建築であった。 一方、学舎の整備とともにこの時期、大学の教育・研究推進のために欠かせない図書の整備も進んだ。ゾンバルト文庫、福田文庫、ローゼンベルク文庫などのコレクション購入を行い、1937(昭和12)年には蔵書総計が20万冊を超えた。 1929(昭和4)年には、ドイツの経済学者兼社会学者ゾンバルト(Werner Sombart)の蔵書のうち、経済学と社会主義に関するもの11,574冊を購入し、1931(昭和6)年には、経済研究所が、東京商科大学教授だった福田徳三の蔵書一式計44,800冊を購入した。また、1936〜1938年にかけては、ドイツの法律学者ローゼンベルク(Leo Rosenberg)の蔵書4,906冊の購入も進められた。経済研究所の創設と関市長の構想 大学開学と同時に、大学に経済研究所が設置された。これは、市立大阪商業学校時代の1893(明治26)年の卒業生で、野村證券をはじめとする野村グループの創設者であり、大阪財界の重鎮だった、野村徳七氏(野村合名社長)の寄付100万円によって作られたものである。 「純理論の研究」にとどまらない、「学問と実際方面の研究」の結合、「理論と実際との連絡」とい野村 徳七

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