大阪市立大学の歴史
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63戦争に向かう4つの源流 Ⅲ4.戦争の影と教育環境の整備 1931(昭和6)年9月に満州事変が勃発し、それを決定的契機として、排他的ナショナリズムが高まり軍備拡大が進んでいくこととなった。その後日本では、戦争とファシズムの時代が1945(昭和20)年まであしかけ15年間も続いていくこととなる。翌1932(昭和7)年には、5・15事件が勃発、1933(昭和8)年3月には、国際連盟から脱退し、日本は国際的に孤立を深めていく。 そのように戦争の影が見え始め、「昭和恐慌」下の就職難もあるなかで、以下に見るように一部で学生達の不満の高まりも見られたが、大阪商科大学は創設後数年を経て徐々に教育環境を整えていった。学生達の不満とストライキ 1932(昭和7)年2月に学生ストライキがおこった。それは、学部の受験資格と出席率をめぐって出席調査制度の全廃を学生が要求したことに伴うものだった。そのような行動の底流には、「大学の講義内容への不満や恐慌下の就職難の時代に留年することへの大きな不安」などがあった。 最終的には、学則施行細則が改正され、第15条に「出席率ハ受験資格及試験成績ニ関係ナシ 全ク出席セサル科目ハ之ヲ履修シタルモノト認メス」の1条が追加された。 このストライキでは、左翼学生が大きな「推進力」となっていたが、多くの一般学生も関与しており、大学側は本件に関連して、学生処分は行わなかった。しかし、官憲は、共産青年同盟等を弾圧し、同年の商大生検挙者が27名にも及んだ。予科生の1名は起訴された。この関係で、大学も退学12名、停学7名、訓戒8名にも及ぶ多数の処分を実施した。教育環境の整備―学舎・図書の整備 開学当初は、天王寺烏ヶ辻町の元大阪市立高等商業学校校舎を仮校舎としてスタートしたが、大学設立と同時に校地を新たに購入し学舎も新設する予定であった。大学創設後間もない1928(昭和3)年11月に大阪市会は大阪商大の校地を、大阪市住吉区杉本町36番ほか5万2488坪(約173,210㎡)とすることを議決し、

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