大阪市立大学の歴史
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60Ⅲ 戦争に向かう4つの源流「後者については大阪といふ土地柄と商科大学といふ学校の性質上、大体においてなるべく経済の実地に役立つ人を造る方針で進みたいと思ふ」としている。(いずれも『大阪朝日新聞』1928年6月7日) そして、教育理念については、学長就任式およびその際の記者会見において、より詳しく以下のようにも述べている。すなわち、「役に立つ」「間に合う」人材を養成することを方針とした。大学の経営ならびに教育方針としては、大学の名前が『商科大学』とある以上、多少職業的な意味も存すると解するから、学問の独立、真理の探究といふことのみに専念せず、将来社会において有為なるべき人材の養成にもつとめたい(『大阪毎日新聞』1928年6月15日) また大学経営については、以下の通り「反動的官僚的大学観」と「急進主義的左翼的大学観」をいずれも排除して大学経営に当たることを明示している。 旧思想のものはとかく学校を治者と被治者との関係に考へ、またあまりに新思想のものは学校をあたかも階級闘争の練習場のやうに心得る。前者は職員側の陥りやすい誤解、後者は学生側の抱き易い不心得であるが、本大学ではかうした誤解を一掃して愉快な協力一致の新学風をつくりたいと私は希ってゐる。それで私はあくまで学生の人格を尊重し、その正しい自由を認めたい考へである。(『大阪毎日新聞』1928年6月15日) 以上の通り、基本的に、関市長の開学の理念に沿った形で、河田学長が、リベラルな大学経営を行っていったと考えられよう。開学当時の教育内容 さて、教育内容であるが、開学当初より貿易科、金融科、経営科、市政科の4分科編成とされ、これが大阪商科大学の特色の1つだった。とくに「市政科」は、商大設立の「理念の具体化の一つ」として注目された。「大都市としての特色を発揮するうへに、これほど実際的な学問はまたと他にない、大都市の大学

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