大阪市立大学の歴史
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59戦争に向かう4つの源流 Ⅲあるが、又国立大学の「コッピー」であってもならぬ。〈中略〉其設立都市の有機組織と其都市の市民生活の内に市立大学が織込まれなければならない。 関が市立の商科大学設立の意義・根拠そして目的に、国家ではなく「市民」を挙げた点は特筆すべき点であろう。(この点が、「国家」に必要な学問・技術を研究・教育するために設置された帝国大学とは大きく異なる点であろう。) 関は、設立後の大学運営においてはできる限り干渉を避け、大学自治尊重の姿勢をとったが、設立時の彼の理念は学則にも反映され、その後の大学のあり方に大きな影響を及ぼした。初代学長河田嗣郎の経営および教育理念 さて、商大創設後初期の大学の整備運営に、関と共に大きな影響を及ぼした人物は、武田学長事務取扱の後をうけて、1928(昭和3)年6月に大阪商科大学初代学長兼、高商部部長に就任した、河田嗣郎であった。 大阪商科大学の命運をも握る重大な意味を持つ初代学長選びは、関市長と関係者の間で慎重に進められた。商科大学の学長として、「権威ある経済学者」であることが最重要条件として挙げられた。複数の候補者から、最終的に内定したのが河田だった。 河田は当時、京都帝国大学教授であり47歳の働き盛りであった。山口県出身で、京都帝大卒業後、徳富蘇峰の下で国民新聞記者生活を送り、その後、母校の京都帝大に戻った。1912(大正1)年から3年ほど、独英米仏に留学もしている。河田の研究分野は広範で、社会政策学をはじめとして婦人問題、農業経済、経済原論などに及んだ。 河田学長は、商大学長発令の際の記者会見で、まず、大学の「二つの任務」について言及しており、「その一つは学問の研究であり、他の一つは学生の教育である」とし、「前者についてはあくまでも自由な立場をとり、教授その他職に当たる人々の捉はれない研究を進めていきたいと思ふ」と述べている。また、河田 嗣郎

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