大阪市立大学の歴史
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 大阪市立大学の前身である大阪商業講習所は、五代友厚のリーダーシップにより、日本近代化の先駆けとして1880(明治13)年に設立された。欧米と対等に渡り合うためには、商人にも学問が必要とのグローバルなヴィジョンに基づくものである。五代は薩摩藩士であり、サムライ魂である「自利より他利を優先する」精神が、信頼関係の構築に繋がり、情の厚い人脈を得、大事を成し得たのであろう。 この精神は、1928年に大阪商科大学となってからも綿々と受け継がれ、当時の市長であった關一氏の建学の精神「大学は都市とともにあり、都市は大学とともにある」は、都市大阪のシンクタンク機能を担い、ローカルなフィールドで成し得た研究成果をモデルケースとして世界に発信するという、まさに公立大学でしか成し得ない使命を見事に表現したものである。そして、「国立大学のコッピー(コピー)であってはならぬ」という強烈なメッセージが、大阪市立大学の独自性を貫き通している所以でもある。そこにサムライとしての誇りと夢がある。 ところで、大学昇格時、なぜ大阪商業大学ではなかったのか?そこには關一市長(当時)の熱く深いヴィジョンがあったからである。彼には、商業大学に留まらず、総合大学に膨らませる夢があった。だから商「科」とし、他の「科」を集める余地を残したわけである。さすがは、当時、必要ないと思われただだっ広い御堂筋を作った方。先を見通す力に感心しきりである。 現在、8学部、11研究科、教育研究組織・附属施設からなる、文字通りの総合大学である。自由闊達な気風は変わらず、昨年度、第128回を迎えたボート祭や逍遥歌「桜花爛漫」、それに応援団にもそのルーツを感じる。同窓会支部も海外を含め、各地に40箇所を超え、伝統の重みを感じる。 本学は実学から端を発し、多くの偉大な先輩を輩出していることも特記すべきことである。芥川賞作家の開高健氏や実業家で上場企業の創始者や会長、社長が名を連ねる。野村証券の野村徳七氏、サントリーの鳥井信治郎氏、塩野義製薬の塩野義三郎氏、ユニ・チャームの高原慶一朗氏らは創始者である。また、コマツの坂根正弘氏、阪和興業の古川弘成氏、大同生命の倉持治夫氏、ツカキグループの塚本喜左衛門氏、アシックスの尾山基氏、ダイセルの札場操氏、小野薬品の相良暁氏、ニプロの佐野嘉彦氏ら、その他にも錚々たる社長、会長、元社長が名を連ねている。 先端的研究を推進する公立大学として、2名のノーベル賞学者を輩出したことは、世界に誇れる本学の強みであろう。本学理学部で永らく教鞭を振るわれ、現在の素粒子物理学の基礎をなす様々な領域、特に自発的対称性の破れの発見により、2008年にノーベル物理学賞を受賞した南部陽一郎特別栄誉教授に続き、2012年には、本学医学研究科の博士課程を修了された後、iPS細胞を樹立し、再生医療の未来を切り開いた山中伸弥先生がノーベル生理学・医学賞を受賞された。ちなみに山中先生は私の高校時代の後輩にもあたり、名誉に思っている。 今年、本学は140周年を迎えているが、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)による未曾有の国難に、想定外の対応を余儀なくされている。その中でも、遠隔授学長あいさつ

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