大阪市立大学の歴史
68/220

54Ⅲ 戦争に向かう4つの源流6月)。また、校地移転を機に、1926年4月から校名も大阪市立都島工業学校と改称し、予科本科の別を撤廃した修業年限6年制の工業学校(専修科も廃止)となった。このような6年制工業学校は全国にもまれな、独自のものであった。 日本の工業学校長会をリードする存在でもあった杉田校長は、1924年に半年にわたって「欧米各国の学事視察」に出張しその成果を以下の新教育方針に反映させた。とくに工業能率の必要を感じ、「工業能率」を正課として取り入れた。人格の養成と体育とに最も重きを置き、勤労実行主義を以て規律的に訓練し、殊に実技の練習は勿論、時勢の進運に鑑み実験課程を授けて研究的態度を持せしめると共に、能率増進に関する教科を加へ、更に校外に於ける実地の見学及び実習により専門智識技能の拡充を計り、将来有為の「フォアマン」たらしめんことを期す。 そして、「徳育の重視や実験・実習の尊重」などの伝統が踏襲された上記の教育方針にもとづき、6年制の工業学校の充実が図られていった。2.高等実修女学校の発展 前章最後に生じた第3の源流は、その後どのように発展していったのだろうか。 先述の谷馨・初代校長は、岡山(備前)の閑谷学校にも在籍したことのある人物であり、この西区高等実修女学校の女子実業教育の実践には、彼の「教育精神と学校運営の努力」によって支えられている部分が大きかった。 中途退学の生じやすい当時の女子の事情にあわせて高等科内での転科を認め、また、当初は2年制の専攻科と1年制の補習科から成っていた高等科を、3年制の高等科、2年制の専攻科および1年制の補習科に再編しているが、このような、実情に合わせた制度変更も谷校長の学校経営の経験と当時の文部省実業学校局長粟屋謙、工業教育課長伊東延吉の尽力によるものとされている。 その後、1937(昭和12)年には、西区の西長堀新校舎へ移転し、翌1938(昭和13)年には、校長が田村靖校長に替わった。

元のページ  ../index.html#68

このブックを見る