大阪市立大学の歴史
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53戦争に向かう4つの源流 Ⅲ入学資格を尋常小学校卒とし、尋常小学校→高等小学校→市立大阪工業学校という進学ルートではなく、尋常小学校→予科→市立大阪工業学校というルートを確保した。これは、尋常小学校から高等小学校に進まず中学校へ進学する者が増加したことに対処するためだった。 また、1920(大正9)年1月には、学則が全面改正され、1)校名の変更(市立大阪工業学校から大阪市立工業学校へ)、2)本科の電気科新設と分析科の応用化学科への改称および各科の学科課程の大改正、3)専修科の設置(入学資格:中学卒業または同等以上、修業年限2年、これに伴い選科を廃止)、4)本科入学資格の変更(高等小学校卒業者としていたものを予科修了者に限る)などの改革が実施された。またこの改正に伴って、定員は全体で850名に拡大され、授業料も年額6〜10円の大幅値上げとなった。(「大阪市内在籍者と全戸寄留者」および「それ以外」の者との間で2段階の授業料設定という点は変わらず。) この1920年の改正は、本項冒頭に述べた第1次大戦後の急速な工業発展に伴う高度な技術者養成のニーズ急増と、それにともなう、「進学熱の上昇」に対応するためのものであった。 しかし、上記の改正だけでは急速に増大する進学希望には間に合わず、翌1921(大正10)年度からは、「ゲーリー式教授システム」を採用することによって生徒定員を一挙に倍の1700名にまで増加させた。このゲーリー式教授システムとは、生徒を2組に分け、学校のすべての施設を活用して、効率的にプログラムを組んで授業を行う、すなわち、「A組が工場で実習しておるときB組は教室で講義を受けており、B組が工場で実習しているときはA組は教室で講義を受けておると云ったシステム」のことである。時間割作成が複雑である難点はあったが、このシステムによって、教職員も大幅に増加され、各教師は「限られた専門の担当学科に懸命な研究をすることができる」こととなり、生徒の実力も「グングン伸び」始めた。 このほか、1922(大正11)年には土木科(1学年45名)が設置された一方、1924(大正13)年には、応用化学科が大阪市立泉尾工業学校(1922年新設・現大阪市立泉尾工業高等学校)に移管された。 その後、大阪駅拡張のため校地変更が必要となり、1925年12月には大阪市北区善源寺町へ移転した(最終的な竣工は、移転決定から3年7ヶ月を経た1926年

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