大阪市立大学の歴史
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52Ⅲ 戦争に向かう4つの源流Ⅲ 戦争に向かう4つの源流(1930年代〜1940年代半ば)‌―商大および工業教育と女子教育の発展・医専の創設― さて本章では、前章で見た大阪商科大学設立後の様子と戦時期を超えて戦後に続いていく道のり(戦後市大の文系学部につづく第1の源流のその後の流れ)を引き続きたどりつつ、戦後の大阪市立大学に続いていくそれ以外の3つの源流―第Ⅱ章でも見た工業教育の流れ(理工学部につづく第2の源流)および女子実業教育の流れ(家政学部・生活科学部につづく第3の源流)、そして今期新たに生じる医学教育の流れ(医学部につづく第4の源流)―についても平行して見ていく。 戦争期を経てそれら4源流がどのように戦後に向かって流れていくのか。それらの大学および学校はどのような教育を行い、伝統を持っていたのか。戦後の大阪市立大学の伝統と本質・教育理念を理解するためにもこの点を見ておきたい。1.工業教育(第2の源流)の拡大と充実 第2の源流はどのように発展したのだろうか?杉田校長時代の改革―制度改革と定員増大 第1次世界大戦(1914〜1918年)を機に先進工業国家へと成長した日本では、工業教育へのニーズは大きくなった。そのような時代を背景としつつ、本校第2の源流―市立大阪工業学校は、前章で見た創設期から第2の発展ステージに進みつつあった。すなわち1918(大正7)年1月に第2代校長杉田稔東京工業学校(現、東京工業大学)教授を迎え、杉田を中心に多くの制度改革が行われたのである。 まず同1918年1月には本校規則改正が実施され、修業年限2年・定員300名の予科の開設が行われた。杉田 稔

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