大阪市立大学の歴史
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50Ⅱ 商科大学昇格への道と第2・第3の源流 それまでの、ともすれば「有閑階級の子女の人文的教養教育」や良妻賢母教育に陥りがちだった女子教育とは一線を画し、「実修」という語を校名に冠し、積極的に実業教育思想を盛り込んだ教育を目指していた。初代校長の谷馨を中心に、「質実剛健・自治奉仕」という、当時の女子教育としては異色とも言えるスクールモットーを掲げ、「頭」(高等女学校)と「手」(実科女学校)の統一を目指す、独自の教育路線を築いていた。母性を尊重しつつも、家庭生活と社会生活を切り離すのではなく「一単位として見、この二生活を有機化」しようとしていた。 創設当初は、本科4年とその上に高等科として補習科1年および専攻科2年が設けられた。本科には、家政科と商業科の2科が置かれた。家政科は、家庭生活を中心とする教育を、商業科(これは翌年経済科と改称される)は、社会生活に重点をおく教育を目指していた。 そもそも、1899(明治32)年に、実業学校令および高等女学校令が公布され、その実業学校令に基づき工業・商業等の各学校規程が制定されていた。また、1910(明治43)年には、「高等女学校令」が改正され女子中等教育機関としての「実科女学校」が定められた。そして、1920(大正9)年には「実業学校令」が改正され、さらに、1921(大正10)年1月には「職業学校規程」が新たに制定されるなど、女子に対する実業(高等)教育の法令整備が進んだ。 この背景には、大正初期にかけての産業の飛躍的発展がある。主に大都市を中心に進んだ職業婦人層の形成、および第1次世界大戦後の好景気による市民生活の向上によって、それまで小学校に併設されていた「裁縫・手芸学校」(家政女学校とも呼ばれる)に加えて、女子に対するより一層高度の実業教育機関の設置を求める声が高まったのである。 大阪には、すでに1901(明治34)年と1902(明治35)年にそれぞれ大阪府清水谷高等女学校と大阪府堂島高等女学校が、「高等女学校令」に基づく女子中等教育機関として設置されていた(それぞれ大阪市立第一および第二高等女学校の生徒を収容して発足)。しかし、上記のように女子実業中等教育機関の設置への要望谷 馨

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