大阪市立大学の歴史
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48Ⅱ 商科大学昇格への道と第2・第3の源流得」という条文中下線部(筆者付記)を「北海道府県及市ニ限リ」と改正するための働きかけをする必要があった。 大阪選出の代議士が衆議院に「大学令中改正に関する建議」を提出、満場一致可決されたのは、1924年だった。しかし、その後も文部省は市の大学設置に対しては難色を示し続け、文政審議会、枢密院本会議でも可決され、最終的に大学令が改定公布されたのは、ようやく1928年のことであった。 文部省が難色を示していたのには、国が行政責任を負うべき高等教育機関を、自治体としての性格が強い市のレベルの行政機関が運営することによって、国とは異なる理念で大学が運営される可能性があることに警戒心をもっていたためであったと考えられる。すなわち、「戦前の地方自治制の理念」の在り方とも関わっており、「自治団体タル市」の権利の在り方の問題とも深く関わっていたため、その決定には国も慎重とならざるを得なかったのである。また、内閣交代や関東大震災(1923年)も、大学令改定を遅らせる要因として働いていた。 及び腰の姿勢を見せる文部省に対して、1923年に市長となっていた関も働きかけ、1925(大正14)年には文部大臣宛に、長年にわたって「全国唯一ノ商業専門学校ヲ経営」してきた大阪市が大学の経営を行うことを求める意見書を出し、また、「大阪高商昇格ニ関シ陳情」を行っているが、文部次官の態度は煮え切らないままであった。その後、同窓会の実行委員会も盛んに働きかけを続け、文部大臣の態度が軟化した機に乗じて、同窓会単独で横尾孝之亮ほか代表者6名を東京に送って、首相・文相・憲政会本部などに対して積極的に陳情活動を行ったところ、大学令第5条改正を文政審議会に諮問しその答申をもって枢密院の諮詢を求める方向であることを確認したのであった。【大学昇格への動き②:1922〜1928年】1922(大正11)年11.11池上市長提出の「商科大学設置に関し意見書提出の件」   (議案第263号)市会全会一致可決、昇格実行委員12名の選出11.21文部大臣宛市長意見書提出1924(大正13)年 7.11大阪選出代議士提出の「大学令中改正に関する建議」 衆議院本会議で満場一致可決1926(大正15)年12. 9文政審議会「市立大学設置にともなう大学令中改正の件」

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