大阪市立大学の歴史
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46Ⅱ 商科大学昇格への道と第2・第3の源流界・高商の校長・在学生および卒業生たちが一丸となった大学昇格への運動が展開されていたことがわかる。 上記一覧にもあるように、武田校長事務取扱は、1919年1月に新聞記者に次のように、理想を述べている。経済的にみて学校〔大学〕を設立しうる財力等の点から云へば、大阪ほどの土地は他にあるまい。今後大学令の一部に若し改訂を加へる時が来て単に府県としてのみならず、市町村としても学校設立の権を許すことにでもなれば、能くこの権を利用し得るものは大阪だけかもしれない。(中略)〔大阪を〕独り経済的のみならず、学府としても一つの大きな中心地とし度い。 また、武田は、同じ1919年12月の同窓会臨時総会で、1)「現在の高等商業学校を商科大学に昇格し、其下に予科を設け、別に専門部を附設する事」、2)「右準備として大正9年より現在本科3年の上に研究科を設置し、さらに予科を設くること」、3)「昇格時期は大正10年を希望す」という方針を述べている。これに対して、同窓会は「適当なる方法に依り大阪市立高等商業学校を商科大学と為す事に賛成する事」「商科大学と為すべき学校当局の立案を是認し、其実行を助成する事」を可決し、さらに30名から成る実行委員会(委員長:喜多又蔵)を設置している。 上記の昇格実現への働きかけと同時に、同窓会への説明にもあった昇格の布石としての研究科設置や定員の増加など体制・形式改編も順調に進めていった。 まず、1915(大正4)年に高商規則の改正を行い、それまで250名だった生徒定員を350名に増加し、翌1916(大正5)年には再度高商規則を改正し、生徒定員をさらに450名に増加した。その3年後の1919(大正8)年には、校名を市立大阪高等商業学校から大阪市立高等商業学校に改称し、同時に生徒定員を600名に増加させた。さらに、予定通り1920(大正9)年には、研究科1年を設置し、やはり同時に生徒定員を650名に増加させている。さらに、翌1921(大正10)年には、生徒定員を一気に1000名にまで増加させた。 なお、1917(大正6)年には、公立専門学校等の「教諭」の役職名が「教授」と改称されている。

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