大阪市立大学の歴史
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45商科大学昇格への道と第2・第3の源流 Ⅱ このあと、商議員も務めた中橋徳五郎文部大臣によって、6ヶ年計画の高等教育拡張政策、すなわち収容学生数の倍増計画(1万3千人から2万人への拡張)が進められ、全国に大学設置熱が拡大していく。 最初の公立大学は、1919(大正8)年に認められた大阪府立の単科大学だった大阪医科大学(現在の大阪大学医学部)であり、商業分野での最初の単科大学は東京高等商業学校を前身とする東京商科大学であった。 この「大学令」により1920年代末までの10余年で、官立11校が新設され、1928(昭和3)年までに公立5校が、1932(昭和7)までに私立25校が、大学として誕生した。 「大学令」の制定とそれに続く各校の大学設置・昇格にも触発され、新たに校長事務取扱となった武田千代三郎(片野校長の後任に一時的に伊藤真雄教授が校長事務取扱となった後、神宮皇学館長だった武田が任命された)の下、大阪商科大学昇格に向けての働きかけが各方面で積極的に行われるようになる。以下に時系列に列挙してみよう。【大学昇格への動き①:1918〜1920年】1918(大正7)年  高商同窓会での商大設置論1919(大正8)年1.15武田高商校長事務取扱、大学設立に熱意を表明1.28関一大阪市助役、商大昇格に賛意12.4-15高商3年生有志が各方面に母校昇格を訴えて回る12.14高商同窓会臨時総会で、武田校長事務取扱、高商の 大学昇格構想を説明1920(大正9)年11.11大阪市会「商科大学設置に関し意見書提出の件」 満場一致可決11.16大阪商業会議所総会、大学昇格の後援を決議11.21大阪市長、文相に市立商科大学設立に関する意見書を提出 高商の校長や学生自身が昇格への意欲を見せるのは当然ながら、それを同窓会もバックアップし、関助役など大阪市行政も、大阪市会も商科大学設置に積極姿勢を見せ、大阪商業会議所もそれを後押しするという、大阪市の当局・財

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