大阪市立大学の歴史
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44Ⅱ 商科大学昇格への道と第2・第3の源流也:中橋が文部大臣就任後は山岡順太郎)が選任されている。なお後に、飯尾の後任として、やはり同窓会の有力者であった喜多又蔵が選ばれている。 加藤の辞職は、商科大学昇格に向けて一つの節目となる事件として位置づけられよう。商科大学昇格論の高まりと「大学令」の制定 さて、関の大学昇格にむけての基盤作りが行われていた中、1915(大正4)年3月の大阪市会において、大阪商科大学昇格論が議論された。明確に大学昇格が議論されたのは、これが最初であったとされる。市会議員の鎌田長七が「本市ハ商工業ノ中心地トシテ実業教育ノ程度ヲ進メ商科大学設立ノ必要ナキニ非スト思惟シ居レルガ理事者ハ現在ノ程度ニ満足スルヤ」と商科大学設置についての関の意思を問うた。これに対して、関が、商科大学設置は目指すが急速に設置するという考えはないと答えたところ、さらに鎌田は、専門家である関助役を幸いにも大阪市に迎えることが出来、「商業学校将来ノ発展上適当ノ策図ヲ講ゼラレンコトヲ切望ス」と、関への期待を述べている。 このように、大阪市でも高商の大学昇格への動きが見られはじめたのは、折しも第1次世界大戦(1914年〜1918年)の最中であった。第1次世界大戦によって、工業化と都市化が一層押し進められ、高等教育へのニーズも急激に高まった。学校制度の全面改革を期して、1917(大正6)年には「臨時教育会議」が内閣直属諮問機関として発足し、さまざまな教育改革方針を打ち出した。そのなかで、高等教育について大きな改革案が出された。すなわち、従来は「官立(国立)」かつ「総合大学」のみが大学として認められており、大学は東京・京都・東北・九州・北海道の5つの帝国大学だけだったのに対して、「官立」以外の「公立」「私立」も、そして「総合大学」だけでなく「単科大学」も認めるという、大きな変更だった。この方針を受けて、1918(大正7)年12月には「大学令」(勅令第388号)が出された。「大学令」一、 国家ニ須要ナル学術ノ理論及応用ヲ教授シ並其ノ蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トシ兼テ人格ノ陶冶及国家思想ノ涵養ニ留意スヘキモノトス

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