大阪市立大学の歴史
57/220

43商科大学昇格への道と第2・第3の源流 Ⅱてきていた。東京の高等商業学校は、「商科大学不要論」(単科の大学としてではなく、東京帝国大学の法科大学の一部に取り込まれるという案も再三浮上し、文部省もその案に積極的だった)から起こった、「申酉事件」(東京帝国大学への併合に反対し学生が総退学によって抗議した事件)などの困難な状況を切り抜けてきていた。そして、それらの経験から、大学昇格への地歩を固めるためには、帝国大学に肩を並べることの出来るアカデミズムの水準を早急に確保することが何より喫緊の課題であると認識したのだろう。 ちなみに、東京の高等商業学校では、従来から「前垂れ教育」すなわち「実学」対「科学としての商業教育」という対立を、経てきていた。それが、やがて「実業教育」と、それに対する「リベラルな教養第一主義的」な「アカデミック教育」(単科大学・カレッジ的なものではなく総合大学・ユニバーシティー的な教育)との葛藤へ移行していったとされており、その変化の要因には、独自のリベラリズムの伝統に加えて大正デモクラシーの影響を受けたことが挙げられている。大学へ移行する過程において生じたこうした葛藤に対して関は、アカデミズムの基礎整備と、そのための教員の質の向上によって解決をはかろうとした。そしてこのような関の方針は、結果として加藤校長の運営方針と対立し、やがて加藤校長の辞職問題へつながっていった。すなわち、加藤が目指し重視していた少人数教室制による教育重視の姿勢に対して、関は、上記の理由による研究重視という姿勢から、教員に研究時間を確保させるための合理化対策として、大人数教室授業の実施を求めたのである。 このような関の要請に加藤は抵抗し、結果として1915(大正4)年、加藤校長は依願辞職した。当面の間、教諭の下河内十二蔵が事務取扱となったが、後任選びは難航した。かつて大阪市立大阪商業学校時代に成瀬校長とともに改革に尽力したこともある神戸高商の水島銕也も候補としてあげられたが、最終的には、山口高等商業学校教授の片野実之助が任命された。加藤の辞職に関しては、同窓会も高商の自治に対する侵害であると大いに反発したが、関と何度か会合するなかで関の主張を了解し、「無事落着」をみた。 その後、1916年には、商議員制度(1901年に廃止されていた)が復活し、そこには、商業学校第1回の卒業生だった飯尾一二を含む大阪財界の有力者7名(飯尾の他には堀啓次郎、片岡直輝、中橋徳五郎、小山健三、坂仲輔、鈴木馬左

元のページ  ../index.html#57

このブックを見る