大阪市立大学の歴史
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42Ⅱ 商科大学昇格への道と第2・第3の源流4.大阪商科大学への昇格―どのようにして大学になったのか? さて、再び、第1の源流から続く商業学校・商科大学の歴史に戻ってみよう。本章冒頭で見てきたように、官立高商が神戸に設立されることで、第2の官立の道ではなく、市立の高等商業学校・高等専門学校として進むこととなったわけだが、その後は、市立の大学昇格にむかって進んでいくこととなる。誰がどのように大学昇格を目指し、どのような過程を経て大学昇格が実現したのだろうか。関一の来阪と教育体制の変化 商科大学昇格の布石となる出来事の一つとして、関せきはじめ一の来阪(1914年7月)が挙げられよう。のちに、大阪市長にもなって、大阪商科大学創設に大きく関わることとなる関は、それまでは、工業政策や交通政策を研究し教える、東京高等商業学校(現在の一橋大学)の看板教授だった。池上四郎大阪市長によって大阪市高級助役として招かれた関は、学理を実際に応用したいとの意欲を抱いて大阪にやってきたのであった。 関は、来阪当初から、大阪高商の大学昇格には強い関心を示していたが、一方で「同校モ一度ハ改革ヲ要スベキモ、其時機ニ就テハ大ニ考量ヲ要スルガ如シ」として、そのタイミングについては、慎重だった。 当時、商業教育はその他の分野に比べて一段低いものとして見られており、そのため東京の高等商業学校の大学昇格が困難を極めたのだが、関はそれを、当事者として経験したことが、その慎重な態度の背景になったと考えられる。すなわち、高等教育機関として認められ、帝国大学のように「大学」となるためには、まず、「アカデミズムの基礎」を固めること、そのための教員の質の充実が、必要不可欠な前提条件であることを、関は痛感していたのである。 関は実際に、東京の高等商業学校において、東京帝大をはじめとする周囲の商業教育蔑視との激しい戦いを、幾度となく経験し関 一

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