大阪市立大学の歴史
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39商科大学昇格への道と第2・第3の源流 Ⅱ 敷地は広大で、後に建設された校舎も立派なもので、内容・設備ともに恵まれており、当時「ハイカラ学校」と呼ばれたようである。大阪市は、1907(明治40)年5月に市会で「大阪市立工業学校学則」を可決し、文部省に設置認可を求めたところ、同年5月の内に、「工業学校規程」による「市立大阪工業学校」を1908(明治41)年4月から開校することが、認可された。 大阪には、当時このほかに、官立(現在の国立)の大阪高等工業学校と大阪府立職工学校があった。官立の大阪高等工業学校は、1896(明治29)年に大阪工業学校として開設され、1901(明治34)年に改称、現在の大阪大学の前身の一つとなった学校で、高級技術者の養成を担った。府立職工学校は、市立大阪工業学校開設とほぼ同時期に作られた学校であるが、尋常小学校卒業程度を入学資格とする修業年限3年の教育機関であり、市立大阪工業学校の選科と同様に、初等技術者養成を担う機関としての役割を担った。 これに対して市立大阪工業学校の本科は中級技術者の養成を行うものであった。開校当初の状況と堀居校長の教育理念 さて、1907(明治40)年に設置が認可された市立大阪工業学校は、堀居左五郎を初代校長として、1908(明治41)年に開校した。 当初の入学許可者は122名(志願者151名中)、本科106名・選科16名だった。市立大阪工業学校規則(1907年)によれば学校の概要は以下の通りであった。大阪府立職工学校市立大阪工業学校(選科)市立大阪工業学校(本科)大阪高等工業学校尋常小学校満12歳満15歳満17歳満18歳満20歳満14歳図Ⅱ-1:大阪の工業学校の入学・修業年限比較図

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