大阪市立大学の歴史
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38Ⅱ 商科大学昇格への道と第2・第3の源流設置しようとする動きが見られるようになり、1890(明治23)年頃、商業学校および職工学校の敷地用として、各1,000坪(約3,300㎡)の官有地を無対価下付しようとする議案が検討されている。議案自体は議会で可決されたものの、そのときは設置にまでは至らなかった。 その後、日清戦争後の経済発展にともなう国民・市民の実業教育への要求が高まり、先述の「実業学校令」(1899年)によって、中等程度の実業教育がはじめて全般的・全面的に法整備され制度化された。そして、工業学校に関するはじめての統一的基準として「工業学校規程」(文部省令第8号)も、ほぼ同時期に制定されたのである。これにともなって、工業学校設置運動が広がったとされている。1901(明治34)年 には、東京工業学校が東京高等工業学校に、大阪工業学校が、大阪高等工業学校へそれぞれ昇格している。 さらにその後、大阪は「近代日本の一大工業中心都市」へと発展していき、1903(明治36)年10月には、大阪市長・鶴原定吉が、「実業学校令」と「工業学校規程」にもとづく工業学校を大阪市へも設置することを提案した。4カ年継続事業として1906(明治39)年の開校を目指す方向で、市会は市立工業学校設置を可決しており、敷地の選定にも着手したが、日露戦争等の影響で、開設作業は一時凍結となった。日露戦争終結後、市会ではあらためて開設が検討され、3カ年継続事業として1908(明治41)年度開校を目指すことが決定された。 具体的な敷地選定が難航し、天王寺烏ヶ辻町、南区南霞町(第5回内国勧業博覧会敷地跡、現在の新世界界隈)、西区市岡町、北区北野牛丸町など、多数の候補が出されたが、最終的には、北区北野牛丸町(現在の大阪駅北口付近)に開設されることとなった。市立大阪工業学校 牛丸町校舎〈左〉および機械科の鋳物工場〈右〉

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