大阪市立大学の歴史
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37商科大学昇格への道と第2・第3の源流 Ⅱくこととなったのである。高商の本科は修業年限3年、生徒定員250名となった。3.第2の源流―市立大阪工業学校の創設 Ⅰ章から前節までは、現在の大阪市立大学の第1の源流(商・経済・法・文学部および創造都市研究科の源流)である商業講習所からの流れを見てきたが、本節では本学の第2の源流についてみていきたい。現在の大阪市立大学の第2の源流は、理学部・工学部の淵源となった市立大阪工業学校の創設であった。 なぜ、工業学校が商業学校に遅れて設立されたのだろうか。相対的に遅かった工業学校教育整備 そもそも、近代日本における工業学校の制度化は、農業・商業分野に比べると相対的に遅れた。1880(明治13)年12月の「改正教育令」(太政官布告第59号)で、各種実業学校が中等教育機関としてはじめて制度化され、そこには、農学校・商業学校と並んで職工学校も規定されている。しかし、この「教育令」を受けて、1883年に「農学校通則」が、1884年には先述の通り「商業学校通則」が制定されたのに対して、工業学校に関する通則は制定されなかった。工業学校は、東京職工学校(現在の東京工業大学)が、1881(明治14)年5月に文部省によって設置されたのみであった。 一方で、商工業の発展にともなって、大阪という都市においても工業学校を烏ヶ辻校舎(市立大阪高等商業学校)

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