大阪市立大学の歴史
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36Ⅱ 商科大学昇格への道と第2・第3の源流発生し、堂島校舎が全焼してしまうという惨事に見舞われた。「北の大火」とは、同年7月31日早朝に大阪市北区空心町に発生した大火事である。強風と、暑さによる乾燥とにあおられて火災はたちまち広がり、一昼夜燃え広がり続けて民家1万1300戸が被災し、堂島川の北一面を中心に大阪市の全面積の2パーセントも消失してしまった。この火事によって、校舎の全焼はもとより、図書3600点以上、機械5200点以上、器具9000点近く総額2千2百万円相当を失った。 その後急遽江戸堀に仮校舎を設け(西区江戸堀南通3、西区第二高等小学校跡に設置)授業を行うこととなったが、校舎新築が緊急課題となった。高商に昇格して以来、学校が拡大し校舎が手狭となっていたことから、すでに二年前の1907年4月の市会で2ヶ年の継続事業として校舎を新築移転することが決定されていた。その実施が遅れていた状況の中での校舎焼失という出来事であった。 天王寺区烏ヶ辻町(当時は南区)への新校舎新築の予算は、翌1910(明治43)年早々には可決され、3月に着工、1911(明治44)年4月には完成をみた。「英国ルネッサンス式煉瓦石造本館2棟、その正面には70余尺の大時計棟を設け堂々たる商黌の偉容」を示し、「外に仏国ルネッサンス式講堂一棟、図書館、鉄筋コンクリート造の商品館」などの建築物を整え、「専門学校として恥ずるなき施設を一万数千坪の敷地内に経営した」とされている。新校舎での授業は5月からさっそく開始された。 翌1912(明治45)年には、高商の規則をさらに改正し、予科の廃止と附属甲種商業科の分離(市立大阪甲種商業学校として本校敷地内に別途設立、後の大阪市立天王寺商業高等学校に引き継がれていく)が行われている。中等教育機関としての甲種商業科を分離し、以降、高等教育機関として一層の充実を目指してい市立大阪高等商業学校 堂島校舎焼跡〈左〉および江戸堀仮校舎〈右〉

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