大阪市立大学の歴史
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34Ⅱ 商科大学昇格への道と第2・第3の源流た菊池大麓は、就任後早々からその制度化に取り組んだ。すなわち、1903(明治36)年3月に「専門学校令」を制定し、帝国大学より一段低い高等教育機関を「専門学校」と類型化したのである。「実業学校令」も同時に改定され、実業学校のなかで「高等ノ教育ヲ為スモノ」を「実業専門学校」と規定した。そして、実業専門学校は「専門学校令」の規程に基づくことも定められた。つまり、当時の高等学校と帝国大学という正系ルートの高等教育機関以外の、多様な傍系の高等教育機関を「専門学校」という類型で総称し「ひとまとめにした」のであった。 このような「専門学校令」が制定される背景には、日清・日露戦争の影響もあり急速に進展しつつあった工業化とともに増大してきた高等教育による人材養成の需要に応える必要があった。 「専門学校」は、中等学校の卒業者を入れる高等教育機関であり、「高等ノ学術技芸ヲ教授スル」「年限3年以上」の学校であるとされた。官立すなわち現在の国立の他、公立・私立も認められたが、いずれも、その設置廃止には文部大臣の認可が必要となった。 1903年に専門学校令が施行されたのと同時に、千葉・仙台・岡山・金沢・長崎の医学専門学校5つと、東京外国語学校・東京美術学校・東京音楽学校が専門学校となった。また、同時に、札幌農学校・盛岡高等農林学校・東京高等商業学校・神戸高等商業学校・東京高等工業学校・大阪高等工業学校・京都高等工芸学校が実業専門学校となった。そして同年中には、このほか、官立19校と、慶応義塾大学部と早稲田大学・明治大学など29校の計48校が専門学校となった。このなかで、私学の複数校が大学と名乗っているが、それは名乗っているだけであって、法制上の位置づけとしては、あくまで「専門学校」に分類されるものであった。 市立大阪高等商業学校も同様に「専門学校令」に準拠することとなり、翌1904(明治37)年には、文部省告示第64号によって、本科・予科が専門学校として認可された。これによって、学校規程の第1条を「明治36年勅令第61号専門学校令第1条ニ拠リ内外商業ニ関スル高等ノ教育ヲ施ス所トス」(下線筆者)と改定した。また、予科の入学資格に、従来の高等小学校に加えて中学校2学年修了程度の英語が課されることとなった。修学年限は、本科予科ともに変更な

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