大阪市立大学の歴史
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32Ⅱ 商科大学昇格への道と第2・第3の源流「市立」大阪高等商業学校の設置 第2高商設置をめぐる神戸との戦いに惜敗したものの、前節(Ⅱ章の1)の「実業学校令にともなう改変」でも述べたとおり、市立大阪商業学校はすでに、高等商業学校設置のための布石ともなる学校規則の改正を前年1899年9月に決定していた。その学校規則は、官立高商設置が否決された直後の1900年4月1日から施行された。 「国に頼らず自力で」高等商業学校を設置する途を進むことになったなか、加藤校長は、大阪市の平沼助役とともに、市立大阪商業学校を市立大阪高等商業学校へ改組・昇格させることを構想した。1901(明治34)年3月には、大阪市会においてその案が付議されている。当時は第2次経済恐慌(1900〜1901年)のさなかであったが、市会の反応も期待以上に積極的であり、審議も急速にすすみ、市立大阪高等商業学校規則が迅速に制定された。官立高商否決に奮起した大阪のプライドの表れだったと言えよう。 「規程ハ名称ハ『高等』ナル猶ホ程度低キニ過グルノ虞アレバ、寧ロ更ニ程度ヲ高メ東京高商ト同程度トナシ、予科ヲ1年トナシ、入学程度ヲ中学卒業程度ト(引き上げよ)」等の意見も見られた。 同1901年4月11日には、文部省によって、規則ならびに校名改称が認可され(文部省告示第87号)、公立としては最初の、実業教育の専門学校(=当時の高等教育機関)、市立大阪高等商業学校が誕生したのであった。 これは、先に決定した官立の神戸高等商業学校設立(1903年)に、2年も先立つことであった。 規程には、明確に「商業ニ関スル高等教育ヲ施ス所トス」と定め、「高等教育」機関であることが明記された。高等小学校卒業程度の入学資格とする予科3年、中学校卒業程度を入学資格とする本科3年の課程でスタートした。生徒定員は、予科・本科あわせて合計300名であった。授業料も大幅値上げされた。また、商業学校規程の甲種程度の附属甲種商業科を併置し、従来同様「内外商業ニ関スル必須ノ教育ヲ施ス」とした。甲種商業科の入学資格は高等小学校卒業程度だった。 東京の高等商業学校との大きな相違点は、東京が中卒後1ヶ年の予科を経た18歳を入学資格としていたのに対し、大阪高商が中卒程度の17歳で入学できた

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