大阪市立大学の歴史
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31商科大学昇格への道と第2・第3の源流 Ⅱ また、日清戦争後数年経った1899(明治32)年7月の大阪市会では、大阪高等商業学校の設立を内閣総理大臣ならびに文部大臣に申請する建議案が、全会一致で可決されている。 くわえて、同窓会誌にも、「高等商業学校を大阪に設置する議」が掲載発表された。さらに、文部省が召集した全国商業学校長会議でも、大阪に高等商業学校設置の建議案が可決された。大阪に第2の高等商業学校をという声と働きかけは、次第に大きくなっていった。 高等商業学校大阪誘致の流れが強まる一方で、神戸に官立の第2高商をとの動きも強かった。「商業地」大阪と「開港地」神戸が、それぞれ自らの強みを強調し、高商設置の妥当性を主張した。また、神戸が文部省に土地25万円分を寄付すると聞くや、大阪でもそれを上回る30万円相当の土地の寄付を市会で決定する、というように、熾烈な攻防が見られた。 このような情勢の中、1900(明治33)年1月18日に、大阪府選出の伊藤徳三議員ほか6名が「高等商業学校設置ニ関スル建議案」を衆議院宛に提出し、大阪市への第2の官立高商設置を強く訴えた。高等商業学校設置ニ関スル建議案我カ国商業ノ発達振興ヲ計ルニハ商業教育ヲ普及セシムルニ在リ故ニ政府ニ於テ東京高等商業学校ト同一程度ノ高等商業学校ヲ大阪市ニ設置セラレムコトヲ望ム しかし、政府文部省の意向は、当初から港町として通商交易の要地だった神戸に傾いていたとされており、伊藤らの建議に対して、答弁に立った当時の文部次官奥田義人が、神戸設置の意向を政府方針として表したとされる。 上記の伊藤らによる「建議案」は、衆議院の本会議票決に付されることとなり、結果、出席総数141名のうち、賛成70票、反対71票という、まさに1票差の僅差で、大阪市設置の建議は否決されてしまった。これにより、第2の官立高商は神戸設置が確定的となったのであった。

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