大阪市立大学の歴史
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30Ⅱ 商科大学昇格への道と第2・第3の源流への昇格の志向が、その他の機関でも強まっていった。市立大阪商業学校も、第2の高等商業学校への昇格の動きを強めていったのは、まさにそのような趨勢の中だったのである。 以上で見てきたように、「実業学校令」「商業学校規程」の制定によって、本学の第1の源流は、近代学校法制の中で中等教育学校として確立された。それと同時に、高等専門教育機関としての萌芽も見られるようになり、その後急速に高等教育機関への発展を目指していくこととなる。どのような段階を踏んで、大学へと発展していくのだろうか。また、その道は、なだらかなものだったのだろうか。 次項では、その第1ステップとなった「大阪高等商業学校」の設置がどのように進められたのか、官立(国立)化の動きも見られたが、結果的になぜ市立となったのかという点を中心に見ていこう。2.高等教育機関としての市立大阪高等商業学校設置第2の「官立(国立)」高等商業学校化という動き さて、すでに商業教育界においては、東京商法講習所(1875年9月創立)が1884(明治17)年3月に官立・東京商業学校となり、1887(明治20)年10月には高等商業学校へと昇格し、日本の高等商業教育を一手に担っていた。その教育目的は「主トシテ内外商業に関スル必須ノ教育ヲ施シ、将来公私ノ商務ヲ処理経営スヘキ者或ハ商業学校ノ主幹又ハ教員タルヘキ者ヲ養成スル所トス」とされていた。すなわち、①「商業上の管理経営者」すなわちビジネスエリートの育成、および②「商業教育の担当者」すなわち全国の商業教育に携わる教員・教諭の育成という、2つの側面を担う機関として、明確に自らを位置づけていた。 このような、東京の高等商業学校に続く、第2の高等商業教育機関を設置したいという思いを、市立大阪商業学校と大阪市も抱いたのである。 すでに、日清戦争勃発の2年前の1892(明治25)年には、私立大阪教育会が「商業学校は独り東京市に設置あるのみにて大阪市に之なきは甚だ遺憾」であり、「高等商業の1校を大阪市に設立せんことを望む」(『大阪朝日新聞』9月14日付)、という意見を府知事・大阪府選出衆議院議員、大阪市会議員に提起していた。

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