大阪市立大学の歴史
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29商科大学昇格への道と第2・第3の源流 Ⅱ設された京都・長崎・滋賀県・函館の各商業学校も、京都以外はすべて第1種校となっていた。 このように「通則」の第1種校として分類されていた多くの商業学校が1899年の「商業学校規程」によって甲種の学校として整備されるなか、「規程」の甲種のさらに上に位置づけられる専攻科を設けた市立大阪商業学校は、他の学校群から「一頭地を抜き、高等商業学校(一橋)に次ぐ第2の高商への歩みを着々と進めた」とされる。加藤の改革によって、市立大阪商業学校は高い評価を受けるに至ったのである。 商業学校以外の動きとしては、1897(明治30)年に京都帝国大学が設立されており、それまで国内唯一の大学であった帝国大学が東京帝国大学へと改称している。その後、帝国大学は徐々に数が増えていき、それとともに高等教育機関明治時代の部・サークル活動と120年あまりのボート祭の歴史 加藤校長が当時、積極的に取り組んだことの1つに、校友会の設立がある。文芸・体育などの奨励機関として全校の教職員によって設立することが加藤によって1896(明治29)年の教員会議に提案されている。1899(明治32)年には、すでにあった諸団体を統合して「大阪商業学校校友会」が組織され、生徒全員の入会が奨励された。「会員ノ親睦ヲ厚クシ、知徳ヲ収容シ、身体ノ強壮ヲ図ル」ことが目的とされ、学芸部と体育部を置いて、それぞれのサークル活動を統括・助成した。 これ以降、ボート部などの課外活動が盛んになったとされている。ただし、ボート祭については、すでに府立大阪商業学校時代、すなわち建学9年目の1889(明治22)年に、「水上運動会」として始まっていた。以降大正、昭和の戦時期も越え毎年脈々とそれは平成の現在まで受け継がれ、2011(平成23)年の開催で第120回を数える、学生はもとより市長・学長・教職員、そして多くの市民も参加する盛大な伝統行事となっている。現在まで続く伝統のボート祭風景:1905(明治38)年頃〈左〉1921(大正10)年頃〈右〉

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