大阪市立大学の歴史
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27商科大学昇格への道と第2・第3の源流 Ⅱ 大阪市民が望んでいた市制特例の廃止が東京・京都とともに1898年に実現し、この時、平沼校長は市の助役に任ぜられた。激務となった平沼に代わって、1899年には加藤が校長に昇格した。この加藤が積極的に取り組んだのが、「実業学校令」に対応する本校のさらなる改革であった。 1894(明治27)年8月から翌95年4月に起こった日清戦争は、経済の拡大・発展をもたらし、これまでの「国際的視野の拡大」と国際的な「通商交易」という国の政策的方向性が、さらに推進されることとなった。これにともなって、実業教育の発展と整備もすすみ、当時の文部大臣だった井上毅を中心に、文部省も実業教育および商業教育・工業教育に関わる法整備を進めていった。すなわち、日清戦争開始直前の1894(明治27)年には「実業教育国庫補助法」が制定され、1899(明治32)年には「実業学校令」(勅令第29号)、ほぼ同時期に「商業学校規程」・「工業学校規程」等が制定された。 なお、「実業教育国庫補助法」によって、市立大阪商業学校へは1897(明治30)年から5年間、年額3600円の補助がなされた。 この「補助法」以降、全国に各種実業学校が設立され、その体系整備のために「実業学校令」が制定され、また、おもに「中等程度の商業教育機関の整備」のために「商業学校規程」が定められたのである。この「商業学校規程」において、商業学校の内容と設置手続きの基本が示されており、この法整備によって商業学校が日本の教育制度に位置づけられたとされる。従来の「商業学校通則」の第一種・第二種の商業学校の種別から、それぞれ甲種・乙種の制度に改められ、「土地の情況によっては」、さらに高度な商業学校設置も公認されることとなっていた。ただし、この項は、その後さらなる高等教育機関の整備のために、1903(明治36)年に制定された「専門学校令」の公布とともに削除されている。 なお、校長就任後の加藤が進めた1899(明治32)年9月の校則改正(1900年4月1日施行)は、この「商業学校規程」に沿ったものであった。 1899年の改訂規程第1条では、「商業学校規程」の甲種商業学校よりさらに高加藤 彰廉

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