大阪市立大学の歴史
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26Ⅱ 商科大学昇格への道と第2・第3の源流れた点に特徴があると言える。 その他の変更点としては、授業料が各科毎に一律の年額となり、大阪市内在住者とそれ以外の者との区別はなくなった。 なお、本改革の翌年12月に「付属語学部規則」が定められ、修業年限1年で「商業に必要である支那語朝鮮語を教える」夜間授業が開始された。日清戦争の影響もあり当初は人気を集め、1895(明治28)年から支那語すなわち中国語は53名(志願者188名から選抜)、朝鮮語は55名(志願者117名)で授業が開講されたが、翌年は志願者が激減し、1897(明治30)年4月には付属語学部は廃止の運びとなった。 改革の実施直前の1893年3月の卒業生は26名であったが、この卒業生たちは、成瀬校長が前回派遣されて改革を実施した1888(明治21)年以降に入学した学生達であった。すなわち、成瀬は、自らが行った前回の改革の成果が結実しはじめた頃に再度大々的な学則変更を実施し、改革をさらに押し進めたと言えよう。翌年1894年には本科29名、95年には本科37名・別科13名(第1回卒業生)、96年には本科36名と別科12名、97年には本科53名と別科17名、98年には高等科7名・本科58名・別科14名の卒業生を輩出している。かつて、創設から10余年間で、たった27名しか卒業生が出ていなかったことに比べると、隔世の感がある。「実業学校令」にともなう改変 さて、成瀬は3年半の在任期間を経て実業界に転身し、その後任に平沼淑郎を迎えた。東京大学文学部政治学理財学科を卒業した後、岡山県の尋常師範学校および尋常中学校教諭を経て、仙台の第二高等学校教授を務めていた平沼は、市立大阪商業学校校長就任後、「教員の質的向上」を期待して、教員人材の招聘に努めた。 その際に、迎え入れられたのが、平沼と東大の同窓だった加藤彰廉であった。加藤は、1895(明治28)年末に主席教諭として着任し、平沼校長を補佐した。加藤は大阪英語学校から東大に進み、卒業後は山口高等中学校教授、広島県尋常中学校長などを務めた人物である。加藤は、以降、足かけ20年の長きにわたって市立大阪商業学校および市立大阪高等商業学校の教育とその改革に尽力することとなる。

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