大阪市立大学の歴史
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24Ⅱ 商科大学昇格への道と第2・第3の源流 新校舎完成と同時に即日移転し、当地にて開業式が挙行された。 市立大阪商業学校への移管を実施した前大阪府知事(市制特例以降は市長も兼務)西村捨三は、農商務次官に転任後、大臣代理としてこの開業式に参列していた。そして、「教育にたいする大阪の商工業者の自覚と奮起」を促すという主旨の演説を行っている。すなわち、「大阪人が日本最大の商業都市を自負しながら、商業学校になってから7年間に卒業生わずか27名、しかもその大多数は他府県出身者で占められ、大阪本籍者は5名に過ぎず、工業学校に至っては未設置であることに注意を喚起」したのである。「最早文明の世の中なれば、武断の政略の教育とは異ひ、夫々各自の業体に就て教育を受け、1人前の立派な人間と成り、万国と通商なし、彼を相手に商工上の戦争を試みねばならぬ」のに、「何と世間に対して顔向けができますか」と厳しく語りかけ、「何卒諸君も御奮発あらんことを」と強く呼びかけている。成瀬校長の教育改革 新校舎建築という教育環境整備とともに行われたのが、1893(明治26)年4月に実施された第4回目の学校規則改正だった。この教育改革が実施された頃から、学校はより一層形を整え、多くの学生を抱え、多くの卒業生を送り出し、上記の西村前知事の「叱責」のあった状況から比べるとほんの数年で「見違えるばかりの盛況」となった。 その教育改革を実施したのは、かつて府立大阪商業学校時代の教育改革に関わった成瀬隆蔵であった。当時、成瀬は、東京の高等商業学校の教授であった。新校舎の工事が進んでいた1892(明治25)年3月に市立大阪商業学校校長に就任した彼は、着任の際に「当地の情勢を察し、学校内外の状況を明らか」にし、「力つとめて漸々に此教育進歩の方法を図る」と挨拶し、改革に当たったのである。成瀬は、同年12月にはアメリカシカゴ万国博覧会と同時に開催された「高等教育万国会議」の名誉副議長にもなっている。 1893(明治26)年4月施行の学校規則の内容は以下の表の通りである。 それまでの規程は多い時でも47条であり、直前の府立大阪商業学校規則は10条までしかなかったのに対して、改正後の規則は72条(附則8条)からなる詳細なものであったことからも、この改革によって学校の制度と内容が、一層整え

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