大阪市立大学の歴史
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23商科大学昇格への道と第2・第3の源流 ⅡⅡ 商科大学昇格への道と第2・第3の源流(1890年〜1920年代)‌―大学創設までの道のりと市立大阪工業学校・高等実修女学校創設―1.高等教育機関昇格にむけた学校整備 戦後の大阪市立大学の第1の源流は、前章で見たように市立大阪商業学校となり近代学校体系の中に位置づけられるようになった。その後徐々に、近代的な高等教育機関としての形式・内実を整えて、高等商業学校・商科大学へと昇格していくこととなるが、その道のりはどのようなものだったのだろうか。堂島新校舎への移転 まず実施されたのは教育環境の整備であり、新校舎の建築であった。 伊庭貞剛に代わって大阪府参事官の板原直吉が校長兼務となった1891(明治24)年、大阪市会において商業学校校舎新築の予算が可決され、同年10月には、官有地だった北区堂島浜通2丁目12番地の約1000坪を譲り受けて、新校舎の工事が着工された。市会で予算が可決された背景には、当時、商業教育に対する世間の認識が深まっていたことや、1880年代から1890年にかけての大阪商工業の発展がめざましく市の財政に余裕があったことなどが考えられる。 翌1892(明治25)年10月15日には、新校舎が完成した。新校舎として建築されたのは、本館・講堂・食堂および銃器室・賄所・納屋・門番所・便所・廊下・表裏両門・掲示場・周囲木柵・井戸・庭園等であった。堂島校舎(市立大阪商業学校〜市立大阪高等商業学校時代)

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