大阪市立大学の歴史
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22Ⅰ 大阪市立大学のあけぼの:第1の源流市立大阪商業学校への移管 大日本帝国憲法が1889年2月に発布され、明治国家はようやく近代国家としての体制を完成させていく。それとともに、1889(明治22)年3月には東京・京都・大阪3市の市制特例公布がなされ、大阪市が誕生した。 これにともなって、府立大阪商業学校は大阪市へ移管され、「市立大阪商業学校」となった。しかし、これは実質的には大きな変更ではなかったと言える。そもそも府立大阪商業学校は、特例以降の「大阪市」にあたる大阪府の区部の管轄であり、区部の地方税によって資金的にまかなわれていた。また、物理的にもそもそも発足当時から、区部にあり、新しい大阪「市内」にあたる場所にあった。学校の内容も組織も教職員も従来通り変更はなかった。ただし、市会設立にともなって商議員のみ、6名任命し直された。それら6名とは、豊田文三郎(辞退したため代わって芝川又平を選出)・亀岡徳太郎・佐野与兵衛・藤田伝三郎(唯一再任)・平瀬亀之助(辞退)・五代龍作(五代友厚の養子・長女武子の夫)である。 学校にとっては、実質的に変化の無かった市への移管よりは、むしろすでに述べた、市に移管されるまでの数年間にわたる学校改革・財政改革・経営改革による学校の基盤づくりの方が重要であった。 また、大阪商業講習所開設から数えてほぼ10年が経過し卒業生も21名となっていたこの時期、府下在住の卒業生が会合して、同窓会が設立されている。

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