大阪市立大学の歴史
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20Ⅰ 大阪市立大学のあけぼの:第1の源流なった。そして、東京高等商業学校教頭兼幹事を務めていた1888(明治21)年に、上述のとおり文部省から府立大阪商業学校に派遣されてくることとなった。翌年には、欧米各国の商業教育を視察したのち、1892(明治25)年に再び来阪し、大阪市立大阪商業学校長となった。その後1895(明治28)年には教育界から離れ、上海紡績会社の総支配人や三井家同族会主事となった。 水みずしま島銕てつや也は、神戸高等商業学校の創立者であり初代校長として知られている。豊前国中津藩出身であるが、姫路中学、神戸商業講習所(現兵庫県立神戸商業高等学校)を経て、1887(明治20)年に東京の高等商業学校を卒業すると同時に東京高商初代専攻部主事に抜擢された有望な若手教員であった。1888年に成瀬の府立大阪商業学校派遣に同行し、着任1ヶ月後からは校長心得として迎えられた。水島は、後に神戸高等商業学校設立に大きく関わるが、その際には「実務を重視する観点から商業学校からの入学を認めるなど独自の入試制度や教育課程を整備し、東京高等商業学校との違いを際立たせた」とされる。(ちなみに神戸大学は、1903(明治36)年の高商設立をもって開学の起点としている。)水島は、後に三商大と呼ばれる東京・大阪・神戸の3つの商業学校いずれにも勤務するという稀な経験を有したこととなる。 さて、この水島がやってきたころから「学校が一段と学校らしくなった」という声が生徒からあがっているように、このころ成瀬・水島が行った改革は、学校の歴史上大きな意義のあるものであった。 当時の学校の教育状況は決して良いとは言えない状態だった。彼ら2名の来阪直後には、卒業式で生徒が壇上に上り、成績評点の仕方に「頗すこぶる差異不同等」があり、「不審不公平」であると大演説を行い、多くの生徒が賛同、校長や教師に説明を要求したが、その説明が曖昧であったため、府会議員や商議員に対して、建白書を差し出すという騒動が持ち上がっている。また教育内容も、当時は教科書らしい教科書も存在していなかったため、教師自らが東京商科大の外国人の師から学んだ際のノートを生徒にそのまま書き写させる、単なるディクテーションをさせているという状況だった。水島 銕也

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