大阪市立大学の歴史
33/220

19大阪市立大学のあけぼの:第1の源流 Ⅰされたことによって、大量のエリート官僚が必要となっていた。帝国大学は高級官僚の「安定的」供給機関としても位置づけられた。この後、官僚のほかにも、医師・技術者などのエリートが、「帝国大学」から輩出されるようになっていくのである。 帝国大学が出来た少し後から、帝国大学への進学ルートに位置づけられていく旧制高等学校が各地に設置されていった。その他の私学やその他官立・公立の学校は、それぞれまた別の人材を供給し、各学校制度の種別に「特化」した人材育成をそれぞれ担っていくこととなる。以降、帝国大学への資源およびエリート人材の集約化と、帝国大学を頂点とする学校制度が整備され、学校の序列化が進行していくのである。成瀬・水島の改革 さて、森は、文部大臣に就任し「帝国大学令」を制定した後の1887(明治20)年に、再び府立大阪商業学校を訪れ、校内の状況を視察している。前述のとおり、森の前回の視察以降、矢野校長心得の改革によって学校の状況はかなり刷新されていた。しかし、未だ森の求める水準には達しておらず、また学生や府会の状況など、森が満足できる状況とは言い難かった。(学生の状況とは、帝国大学の御おやとい雇教師ハウスクネヒトが視察のため大阪商業学校に来校した際に数名の生徒が「同盟休校」したという事件であり、府会の状況とは、知事が学校の改革を実施しようとしても、府会が抵抗するため改革推進が困難だった状況のことである。)そのため、森は、東京の高等商業学校の矢野二郎校長に相談し、矢野校長は、教頭の成瀬隆蔵と教員・水島銕也を調査のために大阪商業学校に派遣することとしたのであった。以降、成瀬・水島の2人によって、改革が進められていくこととなる。 成瀬は、当初、慶應義塾に学ぶが、途中、東京の商法講習所に転じてホイットニーに師事し、1877(明治10)年に2名しかいなかった商法講習所第1回の卒業生の1名となった。卒業と同時に同校の助教心得を命ぜられ、翌年、助教と成瀬 隆蔵

元のページ  ../index.html#33

このブックを見る